真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Ovāda [教誡]

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Vandanā |  Saraṇataya |  Pañca sīla |  Aṭṭhaṅga sīla
Buddha guṇā |  Dhamma guṇā |  Saṅgha guṇā
Paritta Parikamma |  Maṅgala sutta  |  Ratana sutta |  Metta sutta |  Khandha sutta
Mora sutta |  Vaṭṭa sutta |  Dhajagga sutta |  Āṭānāṭiya sutta |  Aṅgulimāla sutta
Bojjhaṅga sutta |  Pubbaṇha sutta
Anekajāti gāthā |  Paṭiccasamuppāda |  Udāna gāthā |  Paccayuddesa
Dhammakāya gāthā |  Metta bhāvanā |  Asubha bhāvanā |  Patthanā
Himavanta gāthā |  Lakkhaṇattayaṃ |  Ovāda |  Patti dāna |  Ratanattaya pūjā

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1.Ovāda

仏陀の教え

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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Appamādena bhikkhave sampādetha, Buddhuppādo dullabho lokasmiṃ, manussabhāvo dullabho, dhullabhā saddāsampatti, pabbajitabhāvo dullabho, Saddhammassavanaṃ dullabhaṃ. Evaṃ divase divase ovadi.
2. [ R-2. / J-2. ]
"Handadāni, bhikkhave, āmantayāni vo, Vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha"

カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
アッパマーデーナ ビッカヴェー サムパーデータ、ブッドゥッパードー ドゥッラボー ローカスミン、マヌッサバーヴォー ドゥッラボー、ドゥッラバー サッダーサムパッティ、パッバジタバーヴォー ドゥッラボー、サッダンマッサヴァナム ドゥッラヴァム.エーヴァム ディヴァセー ディヴァセー オーヴァディ.
2. [ P-2. / J-2. ]
“ハンダダーニ、ビッカヴェー、アーマンタヤーニ ヴォー、ヴァヤダンマー サンカーラ、アッパマーデーナ サンパーデータ”.

日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
比丘たちよ、怠らずに励んで目的を果たせ。この世界に仏陀が現れることは得難い。人として生を受けることは得難い。(仏法において)信仰を得ることは得難い。出家者であることは得難く、正法を聴聞することも得難いのである。このように、(世尊は)日々教誡された。
2. [ P-2. / R-2. ]
「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」

日本語訳:沙門覺應

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2.解題

仏教

ここにOvada(教誡)と題して挙げたパーリ語の文言は、二つの部分からなっています。

一つは、いくつかの経説(特に"Suttanipāta[スッタニパータ]")の注釈書(Aṭṭhakatā[アッタカター])にある一説が若干改変されたものと、仏世尊のご生涯の最後を伝える"Mahāparinibbāna-sutta"(『大般涅槃経』)にある、まさしく「如来の最後の言葉」(Tathāgatapacchimavācā)とです。

仏陀の教えを端的に表すとされる言葉・詩偈には、七仏通戒偈がしばしば挙げらますが、ここに今挙げた仏陀の言葉も、まったくその教えの全てが要略されているものです。以下、七仏通戒偈、ならびにあえて再び先に挙げた仏陀の最後の言葉を示し、併せて漢訳経典の中からも同様の一説を引きます。

Sabbapāpassa akaraṇaṃ, Kusalassa upasampadā
Sacittapariyodapanaṃ, Etaṃ buddhāna sāsanaṃ.

すべての悪しきをなさず、善を行い、
自分の心を浄める。これが諸々の仏陀の教えである。

Dhammapada, Buddhavaggo 183.
[日本語訳:沙門覺應]

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

諸の悪を作すこと莫く、衆の善を奉行し、自ら其の意を浄める。是れ諸仏の教えなり。

『増一阿含経』(大正2, P551上段)

"Handadāni, bhikkhave, āmantayāni vo, Vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha". Ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā

「さあ、比丘たちよ、諸々の作られたもの(諸行)は衰え滅びる性質のものである。怠らずに励んで目的を果たせ」。これが如来の最後の言葉である。

Mahāparinibbānasutta, Tathāgatapacchimavācā
[日本語訳:沙門覺應]

告諸比丘。汝等當知。一切諸行。皆悉無常。我今雖是金剛之體。亦復不免無常所遷。生死之中極為可畏。汝等宜應勤行精進。速求離此生死火坑。此則是我最後教也。

諸比丘に告げん。汝らまさに知るべし。一切諸行は皆ことごとく無常なり。我れ今是の金剛の体なりといえども、亦また無常の遷るところを免れず。生死の中、極めて畏るべきこととす。汝ら宜しくまさに精進して勤め行い、速やかにこの生死の火坑を離れることを求めるべし。

法顕三蔵訳『大般涅槃経』巻下(大1, P204下段)

生死一大事

仏教では、命あるものが果てし無き輪廻の苦海を生まれ変わり死に変わりする中、人として生を受けることは「盲亀浮木」などと言って大変に困難なことであると説きます。そして、そのような中で、仏陀が遺されたその教えにめぐり合えることはさらに稀であり、またその教えに真に信仰を持つことなど甚だ困難です。

せっかく手にした人としての我が身といえども、それは刻一刻と老いていき、そしてあるいは病み、それだけではなく死ぬまで愁悲苦憂悩ありとあらゆる身心の痛みにあえぎ、苦しみと戦わなければなりません。

あるいは前世の宿善によってこの世の春を謳歌しうる稀にして幸運な人はこれを無視し、もしくは気づかずにいられるかもしれません。しかし、多くの人はこれを一応知りながら、時々に訪れる楽しみと幸運とに救われながら、ただじっと耐えやり過ごすだけ。そしてその戦いは死によって必ず敗れます。人は、いつなんどき、その身を無常の風に吹き飛ばされ四大離散するか知れません。

言うまでもなく、人は死にゆく者です。

いや、すべての生命は必ず死を迎えます。かならず老い、病み、絶対に死を免れません。誰しもが知っている「言葉」でしょう。しかし、誰しもが真にはわからず知らず、あるいは忘れ、無視して生きています。故に、突然に我が身にあるいは周囲に無常が起こると、たちまち人は驚きの色をなして、「何故」「あまりに早過ぎる」とあわてふためいて心を乱します。

死は、身近で愛しい人の死はまことに悲しいものです。時として心は張り裂けんばかりに痛み、その死が自身のものであれ他人のものであれ、また多くの悔いを残すでしょう。なぜ悔いを残してしまうのか、それは命ある間にそれが消え行くものであることを忘れ、無闇にその時をついやしてしまったことに多く依るでしょう。

生ける者にとって「自らの」死は恐るべきもの、好ましくないものの最たるものです。しかし、死は決して驚くべきことでも、珍しいことでもありません。また、死に早いも遅いも、老いも若きにも区別なく訪れます。

生命とは、いやいかなるものでも存在するものは、かならず滅び去るものです。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとゞまりたるためしなし。
世中にある人と栖[すみか]と、又かくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍[いらか]を争へる、
高き卑しき人のしまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、
是をまことかと尋ぬれば、昔しありし家はまれなり。
或は去年焼けて今年作れり。
或は大家滅びて小家となる。
住む人も是に同じ。
所もかはらず、人も多かれど、
古[いにしへ]見し人は二三十人が中に、
わづかに一人二人なり。
朝[あした]に死に、夕[ゆうべ]に生るゝならひ、
たゞ水の泡にぞ似たりける。
不知[しらず]、生れ死ぬる人、
いづかたより来りて、いづかたへか去る。
又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主とすみかと、無常を争ふさま、
いはば朝顔の露に異ならず。
或は露落ちて花残れり。
残るといへども、朝日に枯れぬ。
或は花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども、夕を待つ事なし。

鴨長明『方丈記』

鴨長明によって美しく流麗に綴られた、多くの場合詩情・情緒をもってこそ読まれてしまうこの言葉は、誰も否定の仕様のないまったく真実を表したものです。これは深刻な事実を我々に提示しているものです。しかし、それはどこまでも他人事でしかない、故に詩情をもってこそ「味われてしまう」のが現実というものでしょう。

また、死は、現在の日本の社会がそうしているように、忌み嫌って、覆い隠すものではなく、「縁起が悪い」ものなどでもなく、我々が直面すべき最も深刻にして重大な問題です。それは他人事などでは決してありません。次の瞬間に死んで悔いなどない、などと言える人など、ほとんど皆無でしょう。

仏陀が説かれ続けたこと、それは、四苦八苦・愁悲苦憂悩などと集約されて言われる、この人生の数々の痛み苦しみを如何に乗り越えるかです。諸仏の教えは様々に説かれてはいるものの、要約すれば死を前にして、死を直視してこの生において苦しみを乗り越えんとする、その道を解き明かしたもの。それが仏陀の教えです。

その教えは、みずからが死にゆく者であることを如実に知り、我が分際を知ってその分に応じ、頭燃を払って努め励むことによってこそ達せられ確かめられるものです。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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