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法樂寺は山号を紫金山[しこんざん]、院号を小松院と称す、真言宗泉涌寺派の大本山です。
近世から戦後間もない頃までは、江戸期の戒律復興運動の中で慈忍慧猛律師により中興され「天下の三僧坊」と謳われた僧坊の一つ、一派律宗総本山野中寺(青龍派)に属する厳格な律院でした。それがまた江戸中期頃、野中寺末から離れ、当時は律宗の有力寺院の一つでもあり四宗兼学を掲げていた京都泉涌寺の末寺となっています。
それがさらに近代、政府によって宗派の再編成が行われ、律宗や法相・華厳などは十把一絡げに真言宗とされため、北京律を謳う律宗寺院であった泉涌寺もまた真言宗に属するものとなり、その末寺である法樂寺もまた真言宗の寺院となって今に至ります。
しかしながら、法樂寺は、戦後戒律の伝統が潰えたことにより律院でなくなり、近年「田辺のお不動さん」の名で親しまれる祈祷寺・檀家寺となっています。
現在、近畿三十六不動尊霊場第三番ならびに大阪十三佛霊場会第一番、役行者霊蹟札所、神仏霊場(大阪・第六番)となっており、様々な方の信仰に支えられています。
法樂寺は、昔に言うところの摂津国田辺、現在の大阪市東住吉区山坂に位置しています。
今は昔の話となりますが、北には阿倍野の四天王寺、東には繁華な平野郷、そして西には朱雀大路、または熊野街道が通っていました。朱雀大路は、北は四天王寺を経て難波宮へと続き、南は日本最古の官道である竹之内街道へとつづく道でした。
熊野街道は、その名の通り、古くは熊野参詣路としてにぎわった街道です。それら大道、街道としてにぎわいをみせていた中間域に、当山の境域があります。
江戸後期の寛政八年〈1796〉頃に刊行された摂津の観光案内書、『摂津名所図会』には法樂寺について比較的詳細な記述が三項に渡って記され、また往時の法樂寺の全景図が併載せれています。
法樂寺
南田邉村にあり。宗旨四宗兼學。京師泉涌寺に属す。紫金山小松院と號す。黄檗悦山筆の額には紫雲山と書す。
本尊如意輪觀音 源頼朝公念持佛。背面銘に云く、左馬頭源義朝一刀三禮、久安二年丙寅二月十八日、法眼湛幸作レ之。
佛舎利 二顆、寶塔に安ず。傅に云ふ、小松内大臣平重盛公懇志によつて、宋國より贈る所なり。委しきは寺記に見えたり。又舎利記の跋に云
育王請來舎利二顆。紫黄二色。貯二舎利水晶壺。及ビ外圍鍮金五輪塔一。安二舎利壇一。設二舎利壇上蜀錦坐圍一。併布二壇下雑繍坐圍一。施二舎利塔小袈裟一。下略。治承三年己亥七月日
釋迦佛 方丈に安ず。弘法大師作。初は東湖安養寺村安養寺の退雲閣にありしを、中古當寺に遷す。
十一面観音 方丈に安ず。最明寺入道時頼の作。今歡喜天の本地仏と稱す。
鎮守 秋葉權現を祭る。
法樂寺
南田辺村にある。宗旨は(律を根本とする真言・天台・禅・浄土の)四宗兼学であり、京都泉涌寺に属す寺院である。紫金山小松院と号する。黄檗悦山[おうばくえつさん]による額には紫雲山と書かれている。
【本尊 如意輪観音】
源頼朝公の念持仏であったもの。その背面の銘には、「左馬頭源義朝一刀三禮、久安二年〈1146〉丙寅二月十八日、法眼湛幸[たんこう]が之を作る」とある。
【佛舎利】
二顆が宝塔に安置されている。寺伝によれば、小松内大臣平重盛公の懇志によって、宋より贈られたものだという。詳細は寺記に記されている。又、『舎利記』の跋文には、
「(支那の)育王山から請来した仏舎利二顆、その色は紫と黄の二色である。舎利水晶壺の中に納め、それをさらに鍮金の五輪塔に納め、舎利壇に安置している。舎利壇の上には蜀錦を敷き匝らせ、併せて壇の下には雑繍を敷き匝らせている。また、舎利塔には小袈裟を掛けて荘厳している。以下略。治承三年己亥〈1179〉七月日」とある。
【釈迦仏】
方丈に安置されている。弘法大師作である。初めは東湖安養寺村安養寺の退雲閣にあったのを、その昔、当法樂寺に遷したものである。
【十一面観音】
方丈に安置されている。最明寺入道時頼の作である。今は歓喜天の本地仏であると称されている。
【鎮守】
秋葉権現〈静岡秋葉山の神仏習合の神〉を祭っている。
『摂津名所図会』巻一
[現代語訳:沙門覺應]
現在の法樂寺の本尊は、大日大聖不動明王(立像)です。左右には、矜羯羅[こんがら]童子と制多迦[せいたか]童子の二童子を従えています。
しかし、実は一昔前、江戸前期に中興された法樂寺の本尊は、江戸期を通じて如意輪観音菩薩でした。ところが、あるいは明治期の廃仏毀釈の混乱のなかで「いつの間にやら」不動明王に変更され、今に至っています。
その昔は律院であった寺院が、明治維新を迎え大正・昭和と時代を移して仏教が衰退し、律僧・禅者もその篤信者も無くなっていく中で、その経済基盤を得るために祈祷寺院となった寺院は多くあるようです。現在の日本の著名な祈祷寺院・信者寺で、昔は厳格な律院僧坊であったところは少なくありません。
現在本堂となっている建物は、昔は徳懍庵と称する方丈であったものです。その昔の本堂は現代再建された大師堂のある位置にあり、その大きさも今の大師堂とそれほど変わらないものでした。
現在の本堂の最奥部、本尊不動明王を挟んだ向かい合わせの壁には、山本兆揚仏師による四大明王画が奉られています。
また、現在の本堂の右脇陣には、釈迦牟尼仏を中尊としてその両脇に、本来の法樂寺本尊たる如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩を、そして左脇陣には十一面観世音菩薩とその垂迹たる大聖歓喜天を奉安しています。昔は近世の律宗寺院が多くの場合そうであったように、聖天堂が独立してありました。しかし、やはり近代に何故か廃されて今は無く、本堂の左脇に移されて祀られています。
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