真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 法樂寺とは

・ トップページに戻る

1.法樂寺案内

写真:法樂寺三重塔

紫金山小松院法樂寺

法樂寺は山号を紫金山[しこんざん]、院号を小松院と号す、真言宗泉涌寺派の大本山です。

近世江戸中期から戦後間もない頃までは、戒律復興運動の中で中興された野中寺の流れを引く厳格な律院でした。

「日本の小釈迦」とまで賞された慈雲尊者が出家得度され、また初めて住職となられた、尊者ゆかりの寺院でもあります。

しかしながら、法樂寺は、戦後戒律の伝統が潰えたことにより律院でなくなり、近年「田辺のお不動さん」の名で親しまれる祈祷寺・檀家寺となっています。

現在、近畿三十六不動尊霊場第三番ならびに大阪十三佛霊場会第一番、役行者霊蹟札所、神仏霊場(大阪・第六番)ともなっており、様々な方の信仰に支えられています。

画像:『摂津名所図絵』所載の江戸期の法樂寺

摂津国田辺

法樂寺は、昔に言うところの摂津国田辺、現在の大阪市東住吉区山坂に位置しています。

今は昔の話となりますが、北には阿倍野の四天王寺、東には繁華な平野郷、そして西には朱雀大路、または熊野街道が通っていました。

朱雀大路は、北は四天王寺を経て難波宮へと続き、南は日本最古の官道である竹之内街道へとつづく道でした。

熊野街道は、その名の通り、古くは熊野参詣路としてにぎわった街道です。それら大道、街道としてにぎわいをみせていた中間域に、当山の境域があります。

江戸後期の寛政八年〈1796〉頃に刊行された摂津の観光案内書、『摂津名所図会』には法樂寺について比較的詳細な記述が三項に渡って記され、また往時の法樂寺の全景図が併載せれています。

法樂寺
南田邉村にあり。宗旨四宗兼學。京師泉涌寺に属す。紫金山小松院と號す。黄檗悦山筆の額には紫雲山と書す。
本尊如意輪觀音 源頼朝公念持佛。背面銘に云く、左馬頭源義朝一刀三禮、久安二年丙寅二月十八日、法眼湛幸作之。
佛舎利 二顆、寶塔に安ず。傅に云ふ、小松内大臣平重盛公懇志によつて、宋國より贈る所なり。委しきは寺記に見えたり。又舎利記の跋に云
育王請來舎利二顆。紫黄二色。貯舎利水晶壺。及ビ外圍鍮金五輪塔。安舎利壇。設舎利壇上蜀錦坐圍。併布壇下雑繍坐圍。施舎利塔小袈裟。下略。治承三年己亥七月日
釋迦佛 方丈に安ず。弘法大師作。初は東湖安養寺村安養寺の退雲閣にありしを、中古當寺に遷す。
十一面観音 方丈に安ず。最明寺入道時頼の作。今歡喜天の本地仏と稱す。
鎮守 秋葉權現を祭る。

法樂寺
南田辺村にある。宗旨は(真言・天台・禅・浄土の)四宗兼学であり、京都泉涌寺に属す寺院である。紫金山小松院と号する。黄檗悦山[おうばくえつさん]による額には紫雲山と書かれている。
【本尊 如意輪観音】 源頼朝公の念持仏であったもの。その背面の銘には、「左馬頭源義朝一刀三禮、久安二年〈1146〉丙寅二月十八日、法眼湛幸[たんこう]が之を作る」とある。
【佛舎利】 二顆が宝塔に安置されている。寺伝によれば、小松内大臣平重盛公の懇志によって、宋より贈られたものだという。詳細は寺記に記されている。又、『舎利記』の跋文には、
「(支那の)育王山から請来した仏舎利二顆、その色は紫と黄の二色である。舎利水晶壺の中に納め、それをさらに鍮金の五輪塔に納め、舎利壇に安置しているのである。設舎利壇上蜀錦坐圍。併布壇下雑繍坐圍。施舎利塔小袈裟。下略。治承三年己亥七月日
【釈迦仏】 方丈に安置されている。弘法大師作である。初めは東湖安養寺村安養寺の退雲閣にあったのを、その昔、当法樂寺に遷したものである。
【十一面観音】 方丈に安置されている。最明寺入道時頼の作である。今は歓喜天の本地仏であると称されている。
【鎮守】 秋葉権現を祭っている。

『摂津名所図会』巻一
[現代語訳:沙門覺應]

 

・ 目次へ戻る

3.法樂寺の本尊

写真:法樂寺本尊「大日大聖不動明王」

大日大聖不動明王

現在の法樂寺の本尊は、大日大聖不動明王(立像)です。左右には、矜羯羅[こんがら]童子と制多迦[せいたか]童子の二童子を従えています。

しかし、実は一昔前、江戸前期に中興された法樂寺の本尊は、江戸期を通じて如意輪観音菩薩でした。しかしながら、それがいつからのことかとその経緯が不明なのですが、不動明王に変更されています。あるいは明治期の廃仏毀釈の混乱のなかで、どこからか今の本尊の不動明王が遷され、いつのまにか本尊とされたことのように思われます。

本尊を挟んだ向かい合わせの壁には、山本兆揚仏師による四大明王画が奉られています。

現在、本堂の右脇陣には、釈迦牟尼仏を中尊としてその両脇に、元の本尊であった如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩を、左脇陣には十一面観世音菩薩と、その垂迹たる大聖歓喜天を奉安しています。

法樂寺で最上最尊の寺宝は、阿育王山伝来の仏舎利二粒です。これは現在、平成八年に建立された、本堂前にそびえる三重塔内の仏舎利塔に奉安されています。

画像:昭和53年10月2日読売新聞朝刊一面

「絹本著色不動明王二童子像」

昭和五十三年秋、法樂寺の蔵から偶然不動明王図像が発見されました。

この発見された不動明王図像は、学術調査の結果、「天下の三不動」の一つ京都青連院の国宝「青不動」の原画と判明。日本仏教美術における第一級の名品であることがわかりました。

この発見は、日本仏教美術史における一大ニュースとして、読売新聞朝刊(昭和53年10月2日)の一面を飾ります。その時、その画像は大きくカラーで掲載されました。

これは当時の新聞業界では極めて異例、画期的なことで、朝刊にカラー画像が掲載されることなど、それまでにないことでした。結局これがきっかけとなって、以降朝刊においてもカラー写真が掲載されるようになります。

現在、この不動明王図像は、「絹本著色不動明王二童子像」と名付けられ、重要文化財に指定されています。

→不動明王図像について(「重要文化財 法樂寺・絹本著色不動明王二童子像・解説」)

・ 目次へ戻る

3.法樂寺の三重塔

写真:法樂寺三重宝塔全景

平成の木造三重塔

法樂寺の山門をくぐるとすぐその前に、天に向かって直立する、木造三重塔を目にすることができます。この三重塔は、重厚な鎌倉時代様式の百済寺(奈良県広陵町)の三重塔と同じ力強さが特色です。正式には「法樂寺三重宝塔」と命名されています。

この塔は、法樂寺現住職(小松庸祐)が平成3年、その建立を発願。檀信徒ならびに十方有縁の方々のご協力のもと、平成5年に相輪(そうりん)が完成。平成6年には、当山奉安の仏舎利二顆由来の地、中国江南は育王山に参拝して工事の安全無事を祈願。同年に地鎮祭を執行。翌7年4月29日に立柱式。

平成8年11月26日には、三笠宮崇仁親王殿下ならびに同妃殿下のご臨席を賜り、三重塔本尊開眼供養ならびに落慶法要を厳修。ついに完成いたしました。

阿育山伝来の仏舎利を奉安

使用された木材はすべて東吉野産の桧で、屋根瓦は生駒産本瓦。いまだ生気を感じさせる桧の色合いと、左右に凛として広がる三重塔の屋根のソリの美しさもさることながら、なんといっても美しいのは、空に直ぐ生え上がる塔頂に据えられた、繊細にして重厚なる相輪(京都・磯村才治郎商店製作)です。

やや大きめに造られた請花と九輪ならびに水煙とのバランスは絶妙で、それが重厚な三重塔の姿勢を天からグッと引き締めています。

法樂寺三重宝塔は、法樂寺の樹齢800年を超える楠の老古木と並んで法樂寺のシンボルであり、境内より離れた地、たとえばJR阪和線の車中からもこれを望むことが出来ます。現在、たなべ不動尊の縁日である毎月28日には、法樂寺三重宝塔の初重を開扉し、参拝の方々に内陣を拝礼して頂けるようにしております。

内陣の密壇に安置している宝筐印塔の中には、中国育王山より伝来の紫金二顆の仏舎利が奉安されています。この三重塔の真の本尊、いや法樂寺の真の本尊と言うべき、尊いものです。

法樂寺三重宝塔の内陣
塔内に奉安の諸尊
本尊 金剛界大日如来(向吉悠睦大仏師 造顕)
脇侍 不動明王・愛染明王(江戸期)
宝筐印塔 育王山伝来の仏舎利二顆
四天柱 極彩色金剛界三十六尊曼荼羅
法樂寺三重宝塔の仕様
塔高
礎石上塔身高 50.880尺(15.416m)
相輪長 26.433尺(8.009m)
礎石上塔総高 77.313尺(23.425m)

・ 目次へ戻る

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。