真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Lakkhaṇattayaṃ [法印]

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1.Lakkhaṇattayaṃ

法印

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パーリ語原文
1. [ R-1. / J-1. ]
Sabbe saṅkhāra aniccā'ti, yadā paññāya passati,
Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.

2. [ R-2. / J-2. ]
Sabbe saṅkhāra dukkhā'ti, yadā paññāya passati,
Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.

3. [ R-3. / J-3. ]
Sabbe dhammā anattā'ti, yadā paññāya passati,
Atha nibbindati dukkhe, esa maggo visuddhiyā.

カナ読み
1. [ P-1. / J-1. ]
サッベー サンカーラ アニッチャー’ティ、ヤダー パンニャーヤ パッサティ、
アタ ニッビンダティ ドゥッケー、エーサ マッゴー ヴィスッディヤー.
2. [ P-2. / J-2. ]
サッベー サンカーラ ドゥッカー’ティ、ヤダー パンニャーヤ パッサティ、
アタ ニッビンダティ ドゥッケー、エーサ マッゴー ヴィスッディヤー.
3. [ P-3. / J-3. ]
サッベー サンカーラ アナッター’ティ、ヤダー パンニャーヤ パッサティ、
アタ ニッビンダティ ドゥッケー、エーサ マッゴー ヴィスッディヤー.

日本語訳
1. [ P-1. / R-1. ]
「すべての形作られたもの(諸行)は壊れゆくもの(無常)である」と、智慧をもって見たならば、彼は苦より離れる。これは清浄なる道である。
2. [ P-2. / R-2. ]
「すべての形作られたもの(諸行)は苦しみ(苦)である」と、智慧をもって見たならば、彼は苦より離れる。これは清浄なる道である。
3. [ P-3. / R-3. ]
「すべての事物(法)は我ならざるもの(無我)である」と、智慧をもって見たならば、彼は苦より離れる。これは清浄なる道である。

日本語訳:沙門覺應

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2.解題

世界の、すべての存在がそなえる特徴

この世界すべての事物の特徴を、Lakkhaṇattaya[ラッカナッタヤ]すなわち「三つの特徴」として数え挙げたもので、これは仏教独自の見解です。すべての真実のあり方はなにか。この世界の、すべての事物は我々にとっていかなるものであるかを表した言葉です。

これを、支那以来日本でも三法印あるいは四法印と言い習わしてきました。仏教とは何か、その教え・見解の特徴は何か、を言わんとしたときに必ずと言っていいほど言われる言葉です。法印とは、法(教え・真理)の特徴・象徴の意味です。

もっとも、支那以来、三法印としていわれるのは、諸行無常[しょぎょうむじょう]・諸法無我[しょほうむが]・涅槃寂静[ねはんじゃくじょう]の三つで、これに一切皆苦[いっさいかいく]を加えて四法印としたものが言われます。

上に示した文言には、涅槃寂静つまり「涅槃というすべての苦しみを離れた境地」ということを言っていませんが、清浄なる道を究竟したところにあるのが涅槃ですので、内容的には全くとは言えないとしても、ほぼ同じことを意味していると見てよいでしょう。

これら三法印あるいは四法印は、端的に仏陀の説かれた教えの内容を示すものであり、故にこの三つあるいは四つを備えていない教えは、仏陀の教えとして認められない、という一つの基準としても、支那以来用いられています。

苦しみと苦

仏陀は、その根本の教えである四聖諦を解き明かされる中、すべてが苦しみであることを第一に挙げられました。いわゆる苦集滅道の四つの聖なる真理のうちの苦聖諦です。

苦しみ、一口にそう言っても、その内容は様々です。巷間でも、このようなことわざが言われます。

苦は色変える

これは「苦しみ・苦労というものは、誰でも何処にでもあって、ただその性質が異なるだけである」という意味のものです。我々は、どこにあっても「苦しみ」から逃れることは出来ない。

二千五百年ほど前に誕生され、数多くの得難い教えを遺された仏陀は、苦しみを四苦八苦と説き、またこれをその内容から三種に分類して示されました。

まず四苦八苦の四苦とは、生[しょう]・老[ろう]・病[びょう]・死[し]です。次に八苦とは、先の四苦に怨憎会苦[おんぞうえく]・愛別離苦[あいべつりく]・求不得苦[ぐふとっく]・五蘊盛苦[ごうんじょうく]の四つを加えて言ったものです。

それらが一体何を意味するものであるのか、パーリ語と漢語を並び示し、その現代日本語訳を以下に示します。

四苦八苦(苦聖諦)
No. Pāli 漢語 意味
1 jātipi
dukkhā
生苦 生まれることは苦である。
2 jarāpi
dukkhā
老苦 老いることは苦である。
3 byādhipi
dukkho
病苦 病むことは苦である。
4 maraṇampi
dukkhaṃ
死苦 死ぬことは苦である。
5 appiyehi sampayogo
dukkho
怨憎会苦 不快なものと相関わることは苦しみである。
6 piyehi vippayogo
dukkho
愛別離苦 好ましいものと別れ離れることは苦しみである。
7 yampicchaṃ na labhati
tampi dukkhaṃ
求不得苦 求めるものを得られないことは苦しみである。
8 saṃkhittena
pañcupādānakkhandhā
dukkhā
五蘊盛苦 総じては、(色・受・想・行・識という)五つの執着の集まり(五取蘊)は苦しみである。

世間にて、それが仏教に由来するものであると知らず、四苦八苦という言葉は比較的知られ用いられていても、それらの原義は意外と知られていないようです。その意味は、今上に示したように、実に具体的な人生における様々な、それは誰でも必ず不可避に味わなければならない、苦しみどもです。

しかし、またこの他にも、苦しみを三種に分類した場合には、苦苦[くく]・壊苦[えく]・行苦[ぎょうく]という、三苦が言われます。仏教とは、平易にそして端的に云うならば、苦しみからの解脱を目標とする宗教です。故にその脱すべき苦しみについて、様々に考察してきたのです。

三苦
No. Pāli 漢語 意味
Sanskrit
1 dukkha-dukkha 苦苦 肉体的(痛み等)苦しみ。
duḥkha-duḥkha
2 vipariṇāma-dukkha 壊苦 自分が好ましい・愛おしいと思うモノが、痛み・病み・壊れ・死にゆく等、好ましくない状態に変化するときに感じる精神的苦しみ。
vipariṇāma-duḥkha
3 saṅkāra-dukkha 行苦 自分が存在すること自体、そしてそれにまつわる苦しみ、根源的苦。
saṃskāra-duḥkha

このうち苦苦・壊苦を理解することは容易いでしょう。人は、それが苦しみであることを、日常の経験のうちに知りうる。いや、ある程度年を重ねた者なら誰でも、もうすでに十分すぎるほど知っているでしょう。

しかし、行苦は異なります。これは四苦八苦でいうところの五蘊盛苦と同義と言っていいのですが、これはそう簡単に理解しうるものではありません。これを完全に理解するということは、すなわち悟りに至ることと同じです。

このことについて、これは上座部(分別説部)のものではなく他の部派、説一切有部[せついっさいうぶ]から経量部[きょうりょうぶ]という他の部派を設立したと云われる尊者鳩魔羅多[くまらた](Kumāralāta[クマーララータ])という、紀元1-2世紀頃の高徳の僧によると伝承される偈文の漢訳ですが、譬喩をもってよく表現したものがあるので以下に引用しておきます。

如以一睫毛 置掌人不覺 若置眼睛上 為損及不安
愚夫如手掌 不覺行苦睫 智者如眼睛 緣極生厭怖

一本のまつ毛を手のひらに置いても人はそれを覚知することがなくとも、もし眼球の上に置いたならば、(眼を)傷をつけ、あるいは不快感を覚えるようなものである。愚か者は手のひらのようなもので、行苦というまつ毛を覚知しない。智者は眼球のようなものであり、これ(行苦)に大変な畏れを抱く。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』賢聖品(大正29, P114中段)
[現代語訳:沙門覺應]

現代日本語では、これらを区別するために便宜的に、前の二苦を「苦しみ」と呼び、最後の行苦を「苦」と言うのが良いかも知れません。

なぜ私は苦しいのか

それは、私が存在しているから。

生きるって、生きていくってことは、辛いことなのです。

しかし、世界のすべて、この世の一切は苦しみ以外のナニモノでもない、などと聞いて、これを疑問に思わない人は普通いないと思われます。人生が苦しみに満ちていることは理解できるが、全てではないであろう、この世の一切というのは言い過ぎである。そのような世界観は非生産的で極端な悲観論、ペシミズム(厭世主義)である、と。確かにそのように見ればそう見えるでしょう。実際そのような側面も仏教にはあります。

かと言って、全ては苦しみである、と聞いて「そうか、実は世界は苦しみに満ちているのか。ああ虚しい」などと無闇に悲観的になるようでは、まずその意味を誤解しています。「すべては苦しみであるという真理」を聞いて、あらためて無駄に自ら苦しんでも、不必要に苦しんだとしても意味はありません。それは感情的・情緒的にでなく、理知的にそして身心の芯から確かめられるべきものです。

また、みずからの人生が、この世界が苦しみに満ちていることに、なんとなく気づき、そこでただ悩み苦しんでもがき、あるいは絶望してもその解決にはならないでしょう。

すべてが苦しみであることを知ることは、先に述べたようにそこには次元の異なりがあるのですが、苦しみを滅するに至る道の門です。そもそも端から完全に理解など出来るわけがないものですから、はじめは自身が苦と実感できるものを確認していくことから始めます。そして、確かに実感できなかったとしても、仏陀の教えに従っていくうち、「苦」の意味が次第に理解し得るようになってゆくでしょう。

何故すべてが苦しみであるか、その所以は、すべて形作られたものは無常のもの、必ず衰え・滅び消え去るものであって、すべて我ならざるもの、「真実在としての私」ではないものであるからであると、仏陀は説かれました。

これを真に知る術、道として示されたのが八正道であり、三十七菩提分法といわれる数々の修習法です。そしてその道を歩むのに、実に多くの、そして詳細なる術が仏陀によって明らかにされ、そしてその法を継いできたそれぞれ僧伽によってもまた工夫され具にされています。

初めて聞く人にはずいぶん複雑にしてムズカシイものと聞こえるかも知れませんが、説明や方法がムズカシイのは理解を簡単にそして明らかにするためなのだ、などと言うことも可能のものです。

世界は自分が思っているようには出来ていません。世界は、すべてのものは「私」が望むようには動いていきません。まこと残念なことでしょうが、それが現実です。

仏教では、世界を好ましいもの、なんらか絶対的存在があるなどと考える事を、常楽我浄の四顛倒(四つの誤った世界・モノについての見解)と言います。我々が意識的・無意識的にこのような見解を持っていることによって、実際はそうではない世界の有り様と我が願望と齟齬が生じ、生命はこれにただ苦悶するだけではなく、無限にその循環を繰り返します。それを生死輪廻といいます。

これは悟りを得ない限り、解脱しない限り永遠に止むことがありません。

「常・楽・我・浄」と「無常・苦・無我・不浄」

世界のすべては、無常であり、苦であり、無我であり、不浄である、というのが世界の真実なる姿です。

世界がそのように出来ていることを理解していくうち、ただ単純に肉体的・精神的な意味だけでない「苦」ということを理解していくうち、世界がそうであること、すべての有り様を受け入れていく。

すると、これは時間のかかることで生半にいくものではなく、また人が肉体を持っているものである以上、生きているうちはその肉体にまつわる病気・怪我・老衰などの苦痛から逃れることは出来ませんが、不思議なもので精神的苦しみは氷解していきます。

「苦」であることを知ると、「苦しみ」は和らぎ、あるいは消え去ります。

この我が苦しみを如何にするか、私だけではなくすべての者が等しく抱えるこの苦しみから、いかに逃れ得るかの道。それは清浄の道、自らの心を浄める道であり、生死輪廻の終焉を迎えて寂静に至る道です。

それが、仏陀の説かれ遺された教えです。

小苾蒭覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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