真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 栄西 『興禅護国論』

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1.原文

第二鎭護國家門者。仁王經云。佛以般若付囑現在未來世諸小國王等。以爲護國祕寶 其般若者禪宗也。謂境内若有持戒人。則諸天守護其國云云 勝天王般若經云學般若菩薩。若作國王等。有貧賎人。來罵詈恥辱。時王不示威刑云。我是國王法應治剪。即作是念。我於往昔。諸佛世尊前。發大誓願。一切衆生我皆濟拔。令得阿耨菩提。今起瞋則違本願 四十二章經云。飯惡人百。不如飯一善人。飯千善人。不如飯一持五戒者。飯萬持五戒者。不如飯一須陀洹。飯十萬須陀洹。不如飯一斯陀含。飯百萬斯陀含。不如飯一阿那含。 飯千萬阿那含。不如飯一阿羅漢。飯一億阿羅漢。不如飯一辟支佛。飯十億辟支佛。不如飯一三世諸佛。飯百億三世諸佛。不如飯一無念無住無修無證之者 所謂無念等者。是此宗之意也。楞嚴經云。佛言。阿難。持此四種律儀。皎如氷霜。一心誦我般怛羅呪。要當選擇戒淸淨者以爲其師。著新淨衣燃香閑居。誦此心佛所說神呪。一百八遍。然後結界建立道場。求於悉地速得現前。於道場中發菩薩願。出入澡浴六時行道。如是不寐經三七日。我自現身至其人前。摩頂安慰令其開悟。誦持衆生。火不能燒。水不能溺。乃至心得正受。一切呪詛一切惡星不能起惡。阿難當知。是呪常有八萬四千那由他等金剛藏王菩薩種族。一一皆有諸金剛衆而爲眷屬。晝夜隨侍。設有衆生於散亂心。心念口持。是金剛王常隨從。何況決定菩提心者。阿難。是娑婆界有八萬四千災變惡星二十八大惡星。出現世時能生災異。有此呪地悉皆滅。十二由旬成結界地。諸惡災祥永不能入。是故如來宣示此呪。於未來世。保護初學諸修行者 禪院恒修。此是白傘蓋法也。鎭護國家之儀明矣。智證大師表云。慈覺大師在唐之日發願曰。吾遥渉蒼波。遠求白法。儻得歸本朝。必建立禪院。其意專爲護國家利衆生之故云云 愚亦欲弘者。蓋是從其聖行也。仍立鎭護國家門矣

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2.訓読文

第二鎮護国家門とは、仁王経1に云く、「佛、般若を以て現在・未来世の諸小国王等に付囑して、以て護国の祕宝と爲す」と。其の般若とは禅宗なり。謂く境内に若し持戒の人有らば、則ち諸天、其の国を守護す云云

勝天王般若経2に云く、「般若を学す菩薩、若し国王等に作らんとき、貧賎の人有て、来て罵詈恥辱せん。時に王、威刑を示さずして云ふ、我は是れ国王なり。法、應に治剪すべし。即ち是の念を作す。我れ往昔の諸佛世尊の前に於て、大誓願を発す。一切衆生、我れ皆な済拔して、阿耨菩提を得せしめんと。今ま瞋を起さば則ち本願に違せん」と。

四十二章経3に云く、「悪人百に飯するよりは、一の善人に飯するに如かず。千の善人に飯するよりは、一の持五戒者に飯するに如かず。萬の持五戒者に飯するよりは、一の須陀洹4に飯するに如かず。十萬の須陀洹に飯するよりは、一の斯陀含5に飯するに如かず。百萬の斯陀含に飯するよりは、一の阿那含6に飯するに如かず。 千萬の阿那含に飯するよりは、一の阿羅漢7に飯するに如かず。一億の阿羅漢に飯するよりは、一の辟支佛8に飯するに如かず。十億の辟支佛に飯するよりは、一の三世諸佛に飯するに如かず。百億の三世諸佛に飯するよりは、一の無念無住無修無證の者に飯するに如かず」と。所謂無念等とは、是れ此の宗の意なり。

楞厳経9に云く、「佛言く、阿難、此の四種の律儀を持して、皎たること氷霜の如くにし、一心に我が般怛羅呪10を誦せよ。當に戒清浄の者を選択して、以て其の師と爲んことを要す。新浄衣を著し、香を燃して閑居し、此の心佛所説の神呪を誦すること一百八遍。然して後に結界して道場を建立し、悉地11を求めば速に現前することを得ん。道場の中に於て菩薩の願を發し、出入澡浴、六時行道12、是の如くして寝ずして三七日を経ば、我れ自ら身を現じて其の人の前に至て、摩頂安慰13し、其をして開悟せしめん。誦持の衆生は、火も焼くこと能わず。水も溺らすこと能わず。乃至、心に正受を得て、一切呪詛一切悪星も悪を起こすこと能わず。阿難、當に知るべし。是の呪は常に八万四千那由他14等の金剛蔵王菩薩15の種族有り。一一に皆な諸金剛衆有て眷属と爲し、昼夜に隨侍す。設ば衆生有て散乱心に於ても、心に念じ口に持さば、是の金剛王常に随従せん。何に況や決定菩提心の者をや。阿難、是の娑婆界16に八万四千の災変悪星・二十八の大悪星有り。世に出現する時、能く災異を生ぜんも、此の呪有る地には悉く皆な滅せん。十二由旬17、結界の地と成て、諸悪災祥、永く入ること能わず。是の故に如来、此の呪を宣示して、未来世に於て、初学の諸の修行者を保護す」と。禅院に恒に修するは、此れ是の白傘蓋法なり。鎮護国家の儀、明かなり。

智證大師の表18に云く、「慈覚大師在唐の日、発願して曰く、吾れ遥かに蒼波を渉て、遠く白法を求む。儻し本朝に帰ることを得ば、必ず禅院を建立せん。其の意、専ら国家を護り、衆生を利せんが爲の故なり云云」と。愚も亦た弘めんと欲するは、蓋し是れ其の聖行に従ふなればなり。仍て鎮護国家門を立つ。

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3.現代語訳

第二鎮護国家門 (第二章 国家を鎮め護るために)

『仁王経』に云く、「仏陀は般若をもって現在・未来世の諸々の小国王等に付囑し、それをまた護国の祕宝とされた」と。その般若とはまさしく禅宗のことである。すなわち、その領内にもし持戒の人があったならば、諸々の天神らは、その国を守護するのである。

『勝天王般若経』に云く、「般若を学ぶ菩薩が、もし国王となったときには、貧しく卑しい人々が来て罵詈雑言を並べて恥辱するとしよう。その時、その王は彼らを処罰せずして言うのである、「私は国王である。仏法こそ(汝らがしているような悪行を)治めるものであろう。そして、このようにも思う。私は過去世において諸仏世尊のみ前にて大誓願を発したのである。一切衆生を私は皆な救い導いて、無上菩提を得させよう、と。いま(汝らに対して)怒りを起こしたならば、その本願に違えることとなろう」と。

『四十二章経』に云く、「悪人百人に食事を施すよりは、一人の善人に食事を施すのに如かず。千の善人に食事を施すよりは、一人の五戒を持する者に食事を施すのに如かず。一万人の五戒を持する者に食事を施すよりは、一人の須陀洹に食事を施すのに如かず。十万人の須陀洹に食事を施すよりは、一人の斯陀含に飯事を施すのに如かず。百万の斯陀含に食事を施すよりは、一人の阿那含に食事を施すのに如かず。 一千万人の阿那含に食事を施すよりは、一人の阿羅漢に食事を施すのに如かず。一億人の阿羅漢に食事を施すよりは、一人の辟支佛に食事を施すのに如かず。十億人の辟支佛に食事を施すよりは、一人の三世諸仏に食事を施すのに如かず。百億人の三世諸仏に食事を施すよりは、一人の無念無住無修無証の者に食事を施すのに如かず」と。ここに言われる「無念無住無修無証の者」とは、まさしく禅宗の(目指す境地に達した)者の意である。

『大佛頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』に云く、「仏陀は言われた、「阿難よ、この四種の律儀を持して清らかなること氷霜の如くにし、一心に我が般怛羅呪〈大白傘蓋神呪〉を誦えよ。︙ まさに持戒清浄なる者を択んで、その者を師としなければならない。新しき浄衣を着け、香を焚いて閑かな地にて居し、この心佛所説の神呪を誦すこと百八遍。そうして後に結界して道場を建立し、悉地を求めたならば速やかに現前するであろう。道場の中にて菩薩の誓願を発し、沐浴所に出入りする時も、六時行道の時も、常に神呪を誦えて惰眠を貪らず(努力精進して)二十一日を経たならば、私は自ら我が身をその人の前に現し、摩頂安慰して、彼をして開悟するであろう。︙ この般怛羅呪を誦持する衆生は、火によっても焼くことは出来ず、水によって溺らせることは出来ない。乃至、心に正受〈三摩地・三昧〉を得て、いかなる呪詛・いかなる悪星も(彼に対して)災いを起こすことは出来ない。︙ 阿難よ、まさに知るべし、この般怛羅呪(を誦持する衆生に)は常に八万四千那由他の金剛蔵王菩薩の種族があって、その一人一人皆に諸々の金剛衆があって眷属となり、昼夜に随侍するのである。たとえば、心が散乱して(三摩地にない)衆生であっても、(般怛羅呪を)心に念じて口に誦えなたならば、それら金剛王が常に随従するであろう。ましてや菩提心が堅固なる者であればなおさらである。︙ 阿難よ、この娑婆界〈忍土〉には八万四千の災厄を司る悪星、二十八の大悪星がある。その星が世に出現する時には災害が生ぜるけれども、この般怛羅呪(を誦持する者が)がある土地には、それら悪星は決して現れることがない。十二由旬四方が結界の地となって、諸々の悪しき災厄の前兆すら永く現れることはない。そのようなことから、如来はこの般怛羅呪を宣示して、未来世における初学の修行者らを保護するのである」と。禅院にて常に修すのは、この白傘蓋法〈般怛羅呪〉である。(禅宗が)国家を鎮め護る教えであることは、明らかであろう。

智證大師の上表文に云く、「慈覚大師円仁が唐にありし日、誓願を発して言われた、「私は日本より遥かなる支那へと大海原を渡り、はるばる仏陀の清らかな法を求めてきた。もしこれから日本へと無事帰ることが出来たならば、必ず禅院を建立する。その意図は、もっぱら国家を護り、衆生を利するためである」云云」と。愚かな私もまた(禅を)弘めようと欲するのは、まさしく(慈覚大師の)聖なる行に倣おうとしてのことである。

以上のことから鎮護国家門として章立てたのである。

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4.脚注

  • 仁王経[にんのうきょう]…不空三蔵訳『仁王護国般若波羅蜜多経』巻下 護国品第五「大王過去復有五千國王。常誦此經現生獲報。汝等十六諸大國王。修護國法應當如是。受持讀誦解説此經。若未來世諸國王等。爲欲護國護自身者。亦應如是受持讀誦解説此經。説是法時無量人衆得不退轉。阿修羅等得生天上。無量無數欲色諸天得無生忍」(T8. P840c)などの間接引用。→本文に戻る
  • 勝天王般若経[しょうてんのうはんにゃきょう]…月婆首那訳『勝天王般若波羅蜜経』巻第一「菩薩摩訶薩若作國王王等。有貧賤人罵詈耻辱。不示威1刑云我是王法應治剪。即作是念。我於往昔諸世尊前發大誓願。一切衆生我皆濟拔。令得阿耨多羅三藐三菩提。今若起瞋則違本誓」(T8. P689a)。→本文に戻る
  • 四十二章経[しじゅうにしょうきょう]… 迦葉摩騰・竺法蘭訳『四十二章経』第十一章「佛言。飯惡人百。不如飯一善人。飯善人千不如飯一持五戒者。飯五戒者萬。不如飯一須陀洹。飯百萬須陀洹。不如飯一斯陀含。飯千萬斯陀含。不如飯一阿那含。飯一億阿那含。不如飯一阿羅漢。飯十億阿羅漢。不如飯一辟支佛。飯百億辟支佛。不如飯一三世諸佛。飯千億三世諸佛。不如飯一無念無住無修無證之者」。ここで栄西禅師が引いている『四十二章経』の一節は、現在『大正蔵経』に収録されたものとは後半かなり異なった、唐代に改訂されたもの。
     大正蔵経所収での一節は以下の通り。「佛言。飯凡人百。不如飯一善人。飯善人千不如飯持五戒者一人。飯持五戒者萬人。不如飯一須陀洹。飯須陀洹百萬。不如飯一斯陀含。飯斯陀含千萬。不如飯一阿那含。飯阿那含一億。不如飯一阿羅漢。飯阿羅漢十億。不如飯辟支佛一人。飯辟支佛百億。不如以三尊之教度其一世二親。教千億。不如飯一佛學願求佛欲濟衆生也。飯善人。福最深重。凡人事天地鬼神。不如孝其親矣。二親最神也」(T17. P722c)。
     『四十二章経』は漢訳された仏典として最初期、すなわち一世紀頃翻訳されたものであり、その内容は仏教の要点の四十二点を箇条書きで、しかもかいつまんで収録されたもの。組織的に漢訳されるようになった後代の経典とは体裁が全く異なっている。これは翻訳者によって仏教をまるで知らぬ者のために編集された、いわば諸経典のダイジェスト版のようなもので、狭義での「経典」とは少々言い難いものである。しかし、むしろダイジェスト版だけあって簡にして要を得た内容となっており、支那および日本でも珍重されたのも頷ける。→本文に戻る
  • 須陀洹[しゅだおん]…サンスクリットsrotāpannaあるいはパーリ語sotāpannaなどの音写語。仏教(声聞乗)における聖者の階梯たる四向四果あるいは四双八輩の初めであり、「聖者の流れに預かった者」ということから、預流[よる]と漢訳される。
     預流果に至った者は、もはや生死輪廻や縁起法について確信して疑いが無く、また「人には霊魂がある」「常住普遍の存在がいる」などといった邪見も無く、悟りに至るための誤った方法や見解も無い、とされる。ただし、いまだ欲貪(性欲・情欲)や瞋恚は絶たれていない。しかしながら預流となった者は、七度生まれ変わり死に変りするうちに階梯を昇りつめ、必ず阿羅漢果を得るとされる。→本文に戻る
  • 斯陀含[しだごん]…サンスクリットsakṛd-āgāminあるいはパーリ語sakadāgāminの音写語。仏教(声聞乗)における聖者の階梯たる四向四果の第二階であり、「死後は天界に転生して後、再び人として生まれ変わって来て阿羅漢となる」すなわち「もう一度だけ人として生まれ来る者」であることから、一来[いちらい]と漢訳される。
     斯陀含果に至った者は、預流には未だ残っていた欲貪と瞋恚のおおよそ制せられて無い、とされる。→本文に戻る
  • 阿那含[あなごん]…サンスクリットまたはパーリ語anāgāminの音写語。仏教(声聞乗)における聖者の階梯たる四向四果の第三階であり、「死後は色界以上の天界に転生し、もはや人として生まれ変わってくること無く、そこで阿羅漢となる」すなわち「人として生まれ還らない者」であることから不還[ふげん]と漢訳される。
     阿那含果に至った者は、一来には未だ残っていた微細な欲貪と瞋恚が残らず制せられて無い、とされる。
     有身見・疑・戒禁取・欲貪・瞋恚という五つの粗雑な煩悩、いわゆる五下分結が制し滅ぼしているのが、阿那含である。それら五つの煩悩を五下分結と言うのは「五つの、下分(欲界)に結びつけるもの」であることからかく言われる。→本文に戻る
  • 阿羅漢[あらかん]…サンスクリットarhatあるいはパーリ語arahantの音写語。仏教(声聞乗)における聖者の階梯たる四向四果の第四階、最高位であり、「(供養を)受けるのにふさわしい人」であることから応供[おうぐ]と漢訳される。あるいは、これは通俗的語源解釈によるものであるけれども、ari(敵)+hant(殺すもの)と解釈してarahantを「敵(煩悩)を殺した者」として理解されている場合もある。
     阿羅漢果に至った者は、不還にもいまだ残っていた五つの煩悩、色貪・無色貪・慢・掉挙・無明すなわち五上分結を残らず滅ぼして無い、とされる。
     仏陀の徳を称える十の名称の中でも「応供」と言われ、仏陀も同様に応供(供養を受けるにふさわしい人)すなわち阿羅漢と言われる。けれども、声聞乗における最高位たる阿羅漢と、仏陀とは等しいとはされない。これは大乗のみにおける阿羅漢と仏陀の位置づけというのではなく、声聞乗自体においても仏陀と阿羅漢とは異なるとされる。→本文に戻る
  • 辟支仏[びゃくしぶつ]…サンスクリットpratyekabuddhaあるいはパーリ語paccekabuddhaなどの音写語で、その意は「独りの仏陀」あるいは「孤高の仏陀」。ほとんど阿羅漢より高い悟りを得ているが、ただ独りであることを好んで他に説法教化することもないまま世を去る仏陀、とされる。
     釈尊のように無上正等正覚には至っていないと見なされ、あるいは釈尊のように利他教化することがなかったためにそのような仏陀とは比較的劣った存在と見なされる。特に大乗からは、衆生を利他することが無いという点で劣った、目指すべきでない存在とされる。もっとも、目指すべきでないとは、卑下されるべきであって、一切尊敬すべきでないということは意味されない。→本文に戻る
  • 楞厳経[りょうごんきょう]…般剌蜜諦訳『大佛頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』巻七にある一節の間接引用。
    「阿難汝問攝心。我今先説入三摩地。修學妙門求菩薩道。要先持此四種律儀。皎如氷霜。自不能生一切枝葉。心三口四生必無因。阿難如是四事若不失遺。心尚不縁色香味觸。一切魔事云何發生。若有宿習不能滅除。汝教是人一心誦我佛頂光明摩訶薩怛多般怛囉無上神呪。〔中略〕
    要當選擇戒清淨者。第一沙門以爲其師。若其不遇眞清淨僧。汝戒律儀必不成就。戒成已後著新淨衣然香閑居。誦此心佛所説神呪一百八遍。然後結界建立道場。求於十方現住國土無上如來。放大悲光來灌其頂。阿難如是末世清淨比丘。若比丘尼白衣檀越。心滅貪婬持佛淨戒。於道場中發菩薩願。出入澡浴六時行道。如是不寐經三七日。我自現身至其人前。摩頂安慰令其開悟。〔中略〕
    若我滅後末世衆生。有能自誦若教他誦。當知如是誦持衆生。火不能燒水不能溺。〔中略〕
    阿難當知。是呪常有八萬四千那由他恒河沙倶胝金剛藏王菩薩種族。一一皆有諸金剛衆而爲眷屬。設有衆生於散亂心。非三摩地心憶口持。是金剛王常隨從彼諸善男子。何況決定菩提心者。〔中略〕
    阿難是娑婆界。有八萬四千災變惡星。二十八大惡星而爲上首。復有八大惡星以爲其主。作種種形出現世時。能生衆生種種災異。有此呪地悉皆銷滅。十二由旬成結界地。諸惡災祥永不能入。是故如來宣示此呪。於未來世保護初學」(T19. P133a-137c)。→本文に戻る
  • 般怛羅呪[はんとらじゅ]…般怛羅はpatraの音写語で、ここでは悉怛多般怛羅あるいは薩怛多般怛羅すなわちsitātapatraの略。その意は白傘蓋で、如来蔵の清浄なることを意味するという。法雲『翻訳名義集』「薩怛多般怛羅。資中曰。相傳云是白傘蓋。喩如來藏性本無染遍覆有情也」(T54. P1131c)。
     正しくは佛頂光明摩訶薩怛多般怛囉無上神呪あるいは佛頂光聚悉怛多般怛羅祕密伽陀〈般怛羅呪自体は少々長いためここでは不掲載〉という。 →本文に戻る
  • 悉地[しっぢ]…サンスクリットあるいはパーリ語siddhiの音写語で、原意は成就、達成や繁栄。仏教においては「悟りの成就」や「目的の境地へ達すること」が意味される。→本文に戻る
  • 六時行道[ろくじぎょうどう]…六時は、仏教において一日を六分して用いた称。その六とは晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜。六時行道とは、その六時それぞれ決まった時間に読経や修禅などを行うこと。これは「修行」などといって特別の期間に行われることではなく、僧院での日課。
     現在の時計でこれをいれば、晨朝が六時から十時、日中は十時から十四時、日没は十四時から十六時、初夜は十六時から二十時、中夜は二十時から二十四時、後夜は二十四時から四時。
     四六時中、読経や修禅をしているということは無論なく、たとえば読経は晨朝・(日中)・初夜にて小一時間、修禅は晨朝の読経の前、そして中夜の就寝前などに行う。なお、托鉢は日中以前、晨朝の間に行って昼の食事前までに帰ってこなければならず、午後に托鉢することはあり得ない。→本文に戻る
  • 摩頂安慰[まちょうあんい]…摩頂とは、人の頭頂に右手を置くこと。仏陀がその弟子に摩頂した場合、その弟子が未来に菩提を得る、無上正等正覚を成就するなどと授記(予言)することが多い。安慰とは→本文に戻る
  • 那由他[なゆた]…サンスクリットnayutaの音写語。インドにおける数字の単位であるが、正確にそれがどれほどかは不定だが一般的には1060。仏典においては、漠然と天文学的な数量をいうときに用いられる。同じく天文学的数量単位で、しばしば仏典において用いられる阿僧祇[あそうぎ]の上の単位。→本文に戻る
  • 金剛蔵王菩薩[こんごうぞうおうぼさつ]…『首楞厳経』所説の菩薩。『首楞厳経』においては観音菩薩のような特定の菩薩を指したものではなく、『首楞厳経』の行者を守護する多数の存在。また、密教においては金剛蔵王菩薩は金剛薩埵の別称、あるいはその化身とされる。→本文に戻る
  • 娑婆界[しゃばかい]…娑婆とはサンスクリットあるいはパーリ語sahāの音写語で、その意は「耐えること」。我々のこの世界は苦しみの世界であって、それを耐えなければならないところであるから、「忍度」と漢訳される。娑婆世界。→本文に戻る
  • 由旬[ゆじゅん]…サンスクリットyojanaの音写語で、古代インドにおける距離の単位。大王の軍勢が一日で行軍できる距離がその定義。これは正確な数字で表することは出来ないため諸説あるが、おおよそ15km→本文に戻る
  • 智証大師の表…智証大師とは円珍(814-891)のこと。讃岐の佐伯一族出身で、真言宗祖空海の甥。日本の天台宗の初代座主たる義真(781-833)の弟子で、自身も第五世座主となっている。ここにいわれる「智証大師の表」なるものは見当たらないため不明。
     なお、慈覚大師とは天台座主第三世の円仁(794-864)。円仁は最澄の死後、円珍に先駆けて入唐求法の旅に出、多くの困苦に遭いながらも、しかし得難い数多の経験をして帰朝している。彼の帰朝によって、天台密教が整備される基盤が固められている。
     最澄は天台と密教とを並列的に置いたが、これは最澄が密教を完全に学び伝えていなかったという所が大であったのだが、円仁以降は天台教学よりも不完全であった密教の学習をことさら重視。円珍自身もまた法を求めて入唐留学し、特に多くの密教典籍を持ち帰り、天台の密教化を推し進めた(もっとも、彼らが天台の摩訶止観をまったく等閑視したというわけではない)。
     栄西禅師がここで円珍を引き合いに出しているのは、栄西禅師自身がここでそう述べているように、自身も先徳たる最澄・円仁・円珍らと同様、支那に渡って法を学びこれを持ち帰って「護国の為」にも寺院を建立し広めようとしていることになぞらえ、それに激しく反発していた当時の天台僧らに対し、その正当性を主張するためであろう。→本文に戻る

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