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現代語訳
大宋國天台山留學日本國阿闍梨
傳燈大法師位 榮西跋
大哉心乎。天之高不可極也。而心出乎天之上。地之厚不可測也。而心出乎地之下。日月之光不可踰也。而心出乎日月光明之表。大千沙界不可窮也。而心出乎大千沙界之外。其太虛乎。其元氣乎。心則包太虛而孕元氣者也。天地待我而覆載。日月待我而運行。四時待我而變化。萬物待我而發生。大哉心乎。吾不得已而強名之也。是名最上乘。亦名第一義。亦名般若實相。亦名一眞法界。亦名無上菩提。亦名楞嚴三昧。亦名正法眼藏。亦名𣵀槃妙心。然則三輪八藏之文。四樹五乘之旨打併在箇裏。大雄氏釋迦文。以是心法。傳之金色頭陀。號教外別傳。洎鷲峯迴面雞嶺笑顏。拈華開千枝。玄源注萬派。竺天繼嗣晋地法徒。束以可知矣。寔先佛弘宣之法。法衣自傳。曩聖修行之儀。儀則已實。法之體相。全師弟之編。行之軌儀。無邪正之雜。爰西來大師鼓棹南海。杖錫東川以降。法眼逮高麗。牛頭迄日域。學之諸乘通達。修之一生發明。外打𣵀槃扶律。内併般若智慧。蓋是禪宗也。我朝聖日昌明。賢風遐暢。雞貴象尊之國。頓首丹墀。金隣玉嶺之郷。投信碧砌。素臣行治世之經。緇侶弘出世之道。四韋之法猶以用焉。五家之禪豈敢捨諸。而有謗此之者。謂爲暗證禪。有疑此之者。謂爲惡取空。亦謂非末世法。亦謂非我國要。或賎我之斗筲以爲未徴文。或輕我之機根。以爲難興廢。是則持法者滅法寶。非我者知我心也。非啻塞禪關之宗門。抑亦毀叡嶽之祖道。慨然悄然是耶非耶。仍蘊三篋之大綱。示之時哲。記一宗之要目。貽之後昆。跋爲三卷分立十門也。名之興禪護國論。爲稱法王仁王元意之故也。唯恃狂語之不違于實相。全忘緇素之弄説。憶臨濟之有潤于末代。不恥翰墨之訛謬也。冀傳燈句無消。光照三會之曉。涌泉義不窮。流注千聖之世。凡厥題門支目。列於後云爾
大宋国天台山留学日本国阿闍梨
伝灯大法師位 栄西跋
大いなる哉、心や。
天の高きは極む可からず。而るに心は天の上に出ず。地の厚きは測る可からず。而るに心は地の下に出ず。日月の光は踰ゆ可からず。而るに心は日月光明の表に出ず。大千沙界1は窮む可からず。而るに心は大千沙界の外に出ず。
其れ太虚2か、其れ元気3か。心は則ち太虚を包んで元気を孕む者なり。
天地は我を待て覆載し、日月は我を待て運行し、四時4は我を待て変化し、萬物は我を待て発生す。
大いなる哉、心や。
吾れ已得ずして強ちに之に名づく。是れを名づけて最上乗5となし、亦た名づけて第一義6となし、亦た名づけて般若実相7となし、亦た名づけて一真法界8となし、亦た名づけて無上菩提9となし、亦た名づけて楞厳三昧10となし、亦た名づけて正法眼蔵11となし、亦た名づけて𣵀槃妙心12となす。
然れば則ち三輪八蔵13の文、四樹五乗14の旨、打併して箇の裏に在り。大雄氏釋迦文15、是の心法を以て、之れを金色の頭陀16に伝へて、教外別伝17と号す。鷲峯の廻面、鶏嶺の笑顔に洎んで、拈華千枝を開き18、玄源の萬派に注ぐ。竺天の継嗣、晋地の法徒、束て以て知る可し。
寔に先佛弘宣の法、法衣自ら伝へ、曩聖修行の儀、儀則已に實なり。法の體相、師弟の編を全ふし、行の軌儀、邪正の雑無し。
爰に西来大師19、棹を南海に鼓し、錫を東川に杖して以降、法眼20、高麗に逮び、牛頭21、日域に迄る。之れを学して諸乗通達し、之れを修して一生発明す。外に𣵀槃扶律22を打し、内に般若智慧を併す。蓋し是れ禅宗なり。
我が朝、聖日昌明、賢風遐暢す。雞貴象尊の国、丹墀に頓首し、金隣玉嶺の郷、信を碧砌に投ず23。素臣24、治世の経を行じ、緇侶25、出世の道を弘む。四韋の法26、猶ほ以て焉を用ふ。五家の禅27、豈に敢て諸を捨てんや。
而るに此れを謗る者有て、謂て暗證禅28と爲し、此れを疑ふ者有て、謂て悪取空29と爲す。亦た謂て末世の法に非ずとなし、亦た謂て我が国の要に非ずとなす。或は我の斗筲を賎て、以て未だ文を徴せずと爲し、或は我の機根を軽んじて、以て廃を興し難しと爲す。
是れ則ち法を持する者の法寶を滅するなり。
我に非ざる者、我が心を知らんや30。啻に禪關の宗門を塞ぐに非ず、抑も亦た叡嶽の祖道31を毀るなり。慨然たり、悄然たり、是か非か。
仍て三篋の大綱を蘊めて、之れを時哲に示し、一宗の要目を記して、之れを後昆に貽す。跋して三巻と爲し、分て十門を立て、之れを名づけて興禅護国論とす。
法王仁王の元意に稱んが爲の故なり。唯だ狂語の實相に違はざらんことを恃んで、全く緇素の弄説を忘る。臨済の末代に潤ひ有らんことを憶ふて、翰墨の訛謬を恥じず。
冀くは伝灯の句、消えること無くして、三会32の曉を光照し、涌泉の義33、窮せずして、千聖の世34に流注せんことを。
凡そ厥の題門支目は、後に列すと爾か云ふ。
大宋国天台山留学日本国阿闍梨
伝灯大法師位 栄西跋
なんと大いなるものであろうか、心とは!
天の高きを極めることは出来ない、けれども心はその天を超える。大地の深さを測ることなど出来ない、けれども心はその地の下(の深き)をさらに出過する。太陽と月の光を超えることは出来ない、けれども心は太陽と月の光明をすら超える。大千沙界は窮めることなど出来ない、けれども心は大千沙界の外にも超越する。
それは太虚であろうか、それは元気であろうか。いや、心とは太虚を包み、また元気をも孕むものである。
天地は我によって覆われも載せられもされ、太陽と月とは我によって運行し、(春夏秋冬の)四時は我によって変化し、万物は我によって発生するのである。
なんと大いなるものであろうか、心とは!
私はやむを得ず、敢えてこれを(心と)名づけるのである。これを名づけて最上乗といい、また名づけて第一義といい、また名づけて般若実相といい、また名づけて一真法界といい、また名づけて無上菩提といい、また名づけて楞厳三昧といい、また名づけて正法眼蔵といい、また名づけて涅槃妙心というのである。
そのようなことから、三輪八蔵の文言、四樹五乗の趣旨は、総じてこの(心の)うちに在るのである。偉大な英雄たる釈尊は、この「心法」をもって金色の頭陀(たる摩訶迦葉尊者)に伝え、これを教外別伝と号されたのである。
(釈尊が)霊鷲山にて(一堂に会した弟子らを)見廻されて(ただ黙って一房の華を示され)たとき、鶏嶺〈摩訶迦葉尊者〉のみが(釈尊の意図を知って)微笑んだという拈華微笑の法嗣はやがて千の枝葉を開き、ついに玄源の万派となったのである。
(仏陀の教えは)天竺にて代々受け継がれ、支那における(その教えを伝えてきた)仏教徒については、総じて知られているとおりであろう。
まさに歴代の仏陀らが弘く宣揚されてこられた教えと(その証・象徴である)袈裟衣とはおのずから伝えられ、先代の聖者らが修行されてきた威儀とその儀則とは真実なるものである。仏法の本質とその有り様は、師から弟子へと余すこと無く伝えられるもので、その修行の儀軌は邪正混合していぬものである。
さて、西来大師〈達磨大師〉が、棹を南海〈東南アジア〉に鼓ち、錫を東川〈洛陽〉に杖して以来、法眼(の禅)は高麗に広まり、牛頭(の禅)は日域にまで伝わったのである。
この心法を行うことによって仏陀の諸々の教えに通達し、この心法を修してこそこの生において悟りに達する。外には涅槃扶律を示し、内には般若智慧を併せ持つもの、まさしくそれが禅宗である。
我が国では、天皇のご威光明らかにして、その賢政は国の隅々に布かれている。鶏貴〈高麗〉や象尊〈天竺〉の国より来たる者があれば、丹墀〈御所〉にて(天皇を)礼拝し、金隣〈東南アジア〉・玉嶺〈現パキスタン周辺〉の郷でも、美しい石畳にぬかづいて誠を尽くしている。その臣下らは、治世の経を行じ、僧侶は、出世間の道を弘めている。
(インドにおいては、バラモン教の古の聖典『リグ・ヴェーダ』・『サーマ・ウェーダ』・『ヤジュル・ヴェーダ』・『アタルヴァ・ヴェーダ』の)四韋陀〈4種のヴェーダ〉の法が、今なお尊ばれ行われている。にもかかわらず、(今の日本において、ましてや仏陀の教えの一端たる臨済宗・潙仰宗・雲門宗・曹洞宗・法眼宗の)五家の禅を、どうして捨てるということがあろうか。
しかしながら、これ〈禅〉を謗る者があって「暗証禅だ」と言い、これを疑う者があって「悪取空である」と言いたてている。または「(禅など)末法の世に 適した教えではない」と言い、また「我が日本国の(仏教には)必要無いものである」と言う。あるいは私の器量を賎しんで「いまだ(禅なるものの根拠となる)経文を挙げていない」と言い、あるいは私の能力を軽んじて「(修禅などという)廃れてしまった行を復興することなど出来ないに違いない」と言う。
これら(日本の僧徒らによる禅への批判の言葉)は、まさしく法〈仏教〉を奉持する者でありながら、(仏・法・僧の三宝のうちの)法宝を滅する言である。
(そのような法宝を滅するごとき言を発する者であって)私でない者が、一体どうして私の志を知れるというのであろうか。それは、ただ単に禅関の宗門を塞ぎ閉じようとするにとどまらず、そもそも(すでに牛頭禅を伝えられていた)比叡山の祖〈伝教大師最澄〉の志をも毀損するものである。
なんと嘆かわしいことであろうか、なんと心打ちのめされることであろうか。さあ、どちらが是であり非であろうか(よく考えてみるべきであろう)。
そのようなことから、三蔵〈経蔵・律蔵・論蔵。ここでは「全ての仏陀の教え」の意〉の大要をまとめて今の知識人・智者らに示し、禅宗というもの概要を記して、これを後代の世の人々のために残すこととした。跋して三卷とし、内容ごとに十章を立て、これを名づけて『興禅護国論』とした。
『興禅護国論』を著したのは、ひとえに法王・仁王のご意志に適おうとしてのことである。ただ私の狂語〈栄西自身がその言葉・文章を謙遜しての語〉が実相〈モノゴトの真実。仏意、仏説〉に違わぬようにすることだけを期して行ったことから、出家・在家において一般に語るべきでないことも語ったかと思う。臨済の教えが後代においても伝わり行われることを強く望んだため、筆や文章に誤りがあってもそれを恥ずることはなかった。
願わくは、伝灯の句〈脈々と伝えられてきた仏陀の教え〉が消えること無く、(未来仏たる弥勒仏が説法される場である)三会の暁を照らし輝かし、湧き出る泉(に比せられる仏陀の教えの徳)が尽きること無く、(未来星宿の)千仏の時代にまで注がれつづけることを。
およそ、この『興禅護国論』の内容構成は、これから列挙する通りである。
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