真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『四分律』戒相

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1.はじめに

戒相とは

戒相[かいそう]とは、「戒または律の姿・特徴」を意味し、戒や律の具体的な内容を示す言葉です。ここでは、現在にまで伝えられている諸律蔵のなか、中国・日本においてもっとも縁の深かった『四分律』の戒相、つまりその具体的な条項をご紹介しています。

波羅提木叉

比丘の二百五十戒の条文だけを律蔵から抽出したものを、波羅提木叉[はらだいもくしゃ]あるいは戒本[かいほん]と言います。波羅提木叉とは、サンスクリットPrātimokşa[プラーティモークサ]あるいはパーリ語Pātimokkha[パーティモッカ]の音写語です。

この漢訳語には、戒本・隨順解脱[ずいじゅんげだつ]・別解脱[べつげだつ]・最勝[さいしょう]などがあります。戒本と言う場合は、先ほど述べたように、律蔵から二百五十戒の条文だけを抽出し、まとめた本を指すときに限られます。これは、布薩[ふさつ]という、比丘が毎月二回必ず実行しなければならない重要な儀式で暗誦されます。

ちなみに、『四分律』では、波羅提木叉とは「戒・自攝持・威儀住處・行根・面首・集衆善法・三昧成就」と、具体的に定義しています(大正22,P817下段)。つまり、波羅提木叉とは「戒」であり、「自己を修めるもの」・「威儀の拠り所」・「行いの根本」・「顔と首」・「諸々の善法を集めるもの」・「(冥想における)三昧を達成させるもの」としているのです。おそらく、サンスクリットなど原語の解釈の違いによるものでしょうが、『四分律』の定義と、上に挙げた一般的な波羅提木叉の漢訳語とでは、一致していません。

ところで、『四分律』の波羅提木叉には、『四分律比丘戒本』と『四分僧戒本』との二本があります。しかし、これは編者による違い、『四分律』の訳者である仏陀耶舎が原典から直接抽出して訳したものと、仏陀耶舎が漢訳した『四分律』から抽出したものとの違いにすぎず、語句に若干の異なりが見られますが、もちろん内容に違いはありません。

僧戒八段

さて、比丘の二百五十戒は、律蔵において罪の重大なものから順に、八段に分けて説かれています。これを、僧戒八段と言います。この形式は、現在にまで伝えられている律蔵全てに共通しています。そこで、やはりここでも律蔵と同様に、比丘の二百五十戒を八段ごとに分け、その一々に説明を付しております。

しかしながら、律蔵では、二百五十戒の条項一々に特定の名称など付されていません。そこで、中国南山律宗の祖、南山大師道宣[どうせん]がその注釈書の中で付けている戒名が、その内容を知るのに最も適したものと言えますので、ここでは原則としてそれを挙げています。

本来は在家者が知る必要のないもの

ところで、ここでまず断っておかなければならないのですが、本来、出家者の法律である律蔵の細かい条項の一々を、在家者が知る必要などまったくありません。むしろ、出家者がそれを在家者に逐一教えることなど、余計な誤解や混乱、無意味な詮索を招きかねないこともあって、律蔵の中で具体的に禁じられてすらいます。

しかしながら、明治・大正時代以降の日本仏教では、律など完全に滅んで行われておらず、本当の僧侶とはいかなるものであるのかを知る人もほとんどいなくなっておりますので、あえてここに律の条項の一々を示しました。

律に対する否定的諸見解

「僧侶とは何か」を明確に定義している律蔵の内容とその意義を知ることによって、「日本仏教界で僧侶を名乗っている人々は、形ばかり名ばかりの、まるで冗談のような存在ではないか」と思われる人もあることでしょう。

しかし、日本の多くの人は、「律というのは小乗のもの。大乗は律にこだわるものでない」と誤解した上で、さらに「律蔵など前時代的かつ非合理的で、さらに日本人の気質にそぐわない非現実的なもの。僧侶の本質とはなんら関わりのないものである。そのようなものにこだわるなど、実にばかばかしい」と考えているようです。

「いや、律は必要であろうが、それは現代の社会の要請や常識、慣習にそぐうものであるべきである。2500年前の規定を現代にも用いようなどということは、その律の成立過程を考えればナンセンスであり、思考停止である。よって、現代日本において僧侶とされている人々が合議し、新しい合理的な律をつくれば良かろう」といった主張を耳にすることもあります。

また、「律蔵が実に些細なことまでも規制しているものだとは驚きである。律というものは、なんと形式的で融通の利かない小乗仏教的な、いや、非仏教的なものか。まるでナザレのイエスが否定したパリサイ人の律法である。我々の敬愛する合理の人、釈尊がこんなことを決められたわけがない。これは後世の者が、勝手に釈尊の名を借りて造ったものに違いない」云々といった類の意見を聞くこともあります。

僧侶を職業とする人々から、「僧侶が、それが破戒の最たるものと言われてはいても、僧侶も人間なのだ。妻帯しても問題はなかろう。特に大乗では、すべての生命の救済を説いているのだから、救いの手段として僧侶が妻帯しても良いのだ」といった意見が出されることもあります。

問題をはき違えること甚だしいと思われる意見として、「日本には日本の仏教の歴史があり、そのあり方というものがある。いや、日本で独自に花開いた思想が、インドのそれと異なっているからこそ素晴らしく、アリガタイ。律だなんだと言っても、現実を見よ。そんなものは日本にはそぐわない。大体無くても機能しているではないか。これぞまさに仏教。仏陀の教えはそんな融通の効かないものではない」といったものがあります。

日本人の仏教理解の程度

これら日本人が律に対してもつイメージ、これはあくまでイメージにすぎないのですが、否定的なものが多いようです。それらは、日本仏教の現在まで辿ってきた歴史、あるいは日本仏教界の現状を反映して出される意見だと思われます。

時として、日本仏教から律が消滅したこと、あるいは日本人が律を無視してきたことを、逆説的に「日本人は寛容である」ことの証とする人もあるようです。また「大乗とはそもそもそういうものだ」と勘違いしている人も多いようです。しかし、それらの意見に、仏教としての裏づけや根拠となるものはまったく無いのです。

いずれにせよ、日本人の仏教理解の程度を如実に物語った意見と言えるでしょう。

律とは仏説の聖典

ここで明確にしておきますが、仏教徒にとって、律蔵とは仏陀釈尊が僧侶に対して説かれた規定と、それにまつわる仏陀釈尊の言動録の載る聖典です。よって、であるからが故に、今後もその内容は誰も変えることができない類のものであって、ましてやこれに代わるものを新たに制作するなどということは、全くあり得ないものなのです。また、律に大乗も小乗もありません。律は、仏教の僧侶であるならば、すべからく皆が守らなければならないものです。

律蔵を軽視し蔑ろにするような態度、あるいは律を無視し平気で破るような態度は、周知の通り往古より現在に到るまでの日本仏教界の態度はまさにこれにあたるわけですが、それは僧侶としては当然の事ながら、仏教徒として許されるものでは決してありません。

律蔵の内容を知るにあたって、まずこのことだけは、念頭に置いていく必要があります。

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2.『四分律』戒相 -比丘の二百五十戒-

波羅夷[はらい]法 [4ヶ条]

サンスクリットまたはパーリ語Pārājika[パーラージカ]の音写語。僧侶の最も行ってはならない極重罪。これを犯せばただちに僧伽から追放され、いくらその罪を悔いて懺悔しても、二度と僧侶となることは出来ない。このことから、不共住[ふぐうじゅう]または不応悔罪[ふおうけざい]との漢訳語がある。また、これは「二度と比丘になれない」という出家者としての死を意味するものであり、一般社会に於ける死刑に相当する罪であるということから、断頭罪[だんとうざい]との漢訳語もある。

僧残[そうざん]法 [13ヶ条]

サンスクリットSamghāvaśeşa[サンガーヴァシェーシャ]、パーリ語Saņghādiśeşa[サンガーディシェーシャ]の訳語で、僧伽婆尸沙[そうぎゃばししゃ]などと音写されている。波羅夷につぐ僧侶の重大な罪であるが、正統な方法で懺悔し、贖罪することによって許される。この罪を犯した比丘が許されるには、最低二十人の比丘の前で罪を告白して許しを乞い、全員の同意と承認を得ることによってのみなされる。

不定[ふじょう]法 [2ヶ条]

サンスクリットならびにパーリ語のAniyata[アニヤタ]」の漢訳語。波羅夷法または僧残法、波逸提法について犯戒[ほんかい]の疑惑があり、ただちにその罪を決しがたいが、信頼しうる女性在家信者か被疑者自身の証言によって、波羅夷にも僧残にも波逸提にもなりうる罪。比丘が、そのような疑惑を持たれる状況に身を置くことを禁じた規定。

尼薩耆波逸提[にさぎはいつだい]法 [30ヶ条]

サンスクリットNaihsargika prāyaścittika[ナイヒサルギカ プラーヤスチッティカ]またはパーリ語Nissaggiya pācittiya[ニッサギヤ パーチッティヤ]の音写語。漢訳語は、捨堕[しゃだ]。僧侶の所有物に関する罪。禁止された物品、または禁じられた方法で得た物品を持っていた場合、まずその物を僧伽に対して所有権を放棄し、四人以上の比丘の前で懺悔すれば許される。捨てられた物によっては、懺悔して許された後、その比丘本人に返却される場合もある。ただし、金銭財宝類は返却されない。

波逸提[はいつだい]法 [90ヶ条]

サンスクリットPrāyascittika[プラーヤシュチッティカ]またはパーリ語Pācittiya[パーチッティヤ]の音写語。漢訳語は、単堕[たんだ]。比丘が行うべきでない、ふさわしくない行為に関する罪。これを犯した場合、一人以上の比丘にその罪を告白し、懺悔すれば許される。

波羅提提舎尼[はらだいだいしゃに]法 [4ヶ条]

サンスクリットPratideśanīya[プラティデーシャニーヤ]またはパーリ語Pātidesaniyā[パーティデーサニヤー]の音写語。漢訳語は、対首懺[たいしゅさん]。「告白すべきこと」の意。漢訳語には、他に悔過[けか]・可呵[かか]がある。比丘が食事の布施を受ける時において、なしてはならない行為に関する罪。これを犯した場合は、一人の長老比丘に対し、律蔵に規定された言葉で懺悔すれば許される。

衆学[しゅがく]法 [100ヶ条]

サンスクリットSambahulāh saikśa[サンバフラーッ サイクシャ]またはパーリ語Sambahulā sekhiyā[サンバフラー セーキャー]の漢訳語。比丘の行住坐臥、衣の着方や食事作法、威儀進退から説法などに関する罪。これを意図的に犯した場合は、一人の比丘に対して懺悔すれば許される。故意でない場合は、自分が心の中で反省すれば良い。比丘としての行儀作法の規定。

滅諍[めつじょう]法 [7ヶ条]

サンスクリットAdhikarana śamatha[アディカラナ シャマタ]またはパーリ語Adhikaraņa samatha[アディカラナ サマタ]の訳語。滅諍法は、禁止条項ではなく、僧伽になんらかの異見が起こって争論となったとき、その事態の収拾を計るための規定や、比丘が罪を犯したとき僧伽で行われる裁判の運営法。

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