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1.『在家仏教』

在家仏教 緒言

ウパーサカ仏教が生れた、ウパーサカ仏教が生れた。何が為に生れ、如何にして生れたるか。一言もってこれを掩[おお]へば、何事も行詰って、精神的にも、道徳的にも、まさに自ら滅びんとする現代社会が、真にその出生を余儀なくせしめたのである。

見渡す限り、現今の社会は上層の人々も、下層の人々も目前の利益と瞬間の享楽の為に、道徳を破るは言ふまでもなく、法律を犯すことすら互に相競っている。上下交々利のの為に動いているばかりでなく、かの生命にも代ゆべき男女の貞操すらも惜気もなく踏み蹂って怪まない。さらに国際間の関係を見るに、いずれの国々も外には正義人道を装うも、内には豺狼の飽く事を知らないような欲望に燃えている。外交という巧妙な手段ではとてもその目的を遂げ難いと知ると、忽ちにその仮面を脱し醜悪なる本能を現して、まっしぐらに進んで来る。条約はあっても、誓約はあっても殆んど一片の故紙として顧[かえりみ]られない。これを要するに、現代社会の人々は、真実の生活をなす者が少く、却って虚偽の生活をなす者が多い。かくの如き虚偽生活の流行は、そもそも何に原因するであろうか。それは雑然紛然としているので一規に律することは出来ないけれども、しかも最も重大な責任は精神界の指導者であるべき宗教家が負わなければならない。殊に我日本にあっては、宗教界の大部分を領している仏教の出家僧侶が負わなければならない。

然らば出家僧侶は、現在奈様の生活をしているであろうか。彼等が地は幽雅清浄、温光和風の境に占め、居は金殿玉楼、高堂刹宇に住し、衣も食も尋常人より遙かに優さっているものが多い。盛んなる者は或は地主の如く、或は家主の如く、時には債権者たる権威をも揮う。概して彼等は経済的に安定しているのである。加うるに国家は彼等の広大なる住地に対して租税を免除し、国庫は或堂塔の建築修繕に多額の補助金を支給している。かくの如き特待、かくの如き優遇を、国家は何の見る所あって僧侶に興うるか。詮ずる所、国家は古来の慣習に倣って、今もなお彼等僧侶をもって国民教化の道場主、人心向上の指導者となすからである。しかも彼等の日常為す所は、一として国家の期待を裏切らないものはない。

もし子細に点検するならば、極めて僅小の例外を除いては、上は各宗各派の管長を始めとし、下は一介の所化小坊主に至るまで、国家の期待に副う所の真実の出家僧侶はないのである。大抵は外形上の末節と軽視して居るけれども、その実内心生命の表徴問題に就て、現在僧侶の中に於て、出家の資格になくてはならない、解脱幡相の袈裟である三衣を、四六時中身から離さない者が幾人あるであろうか。恐らくは下衣(五条にして腰巻衣)上衣(七条にして身上より掛ける衣)複衣(九条以上にて上衣の上に重ねて着るもの)の三衣を完全に着けたものは一人もあるまい。出家としては入欲中ですらも、下衣即ち五条の袈裟を腰に纏っていなければならない。不離三衣が厳戒であることすら知るものが少ない。三衣を離れて一日一夜を過せば、出家の資格は忽ちに失せるのである。しかし或高僧達は次のような広言をしている。「かくの如き外形上の末節はどうでもよい。心だに清浄で内心に袈裟を着けておれば、それでよい。仏陀立戒の御主意も大乗の真精神も内心の清浄にある」と。かくの如き主張の下に、戒律厳持の必要を説くものを一笑に附し去っている。成程かの輩の如くに、仏陀立戒法の深旨を真面目に考察しないものには、不離三衣は外形上の一末節と見えるかも知れない。けれどもこの袈裟は仏陀王国の軍旗である。軍旗は軍陣の精神の宿る所である。かの軍旗を表掲することの出来ない軍人が、国家のために働くことの出来ないように、解脱旗と離れた出家は、解脱のために働くことは出来ない。かりに一歩譲ってこれを一末節として見るもその一末節すら実行することに堪えない程の連中が、大節たる不婬不飲酒の戒を厳持することが出来るであろうか。各宗の管長と仰がれる高僧等が陽には不婬の大戒を厳持すと装いながら、陰には妻妾を蓄えて婬楽に耽っているのを見たならば、誰が眉をひそめないでおられようぞ。かの飲酒に到っては甚だしきを極めている。体質が酒を用いることを許さないものはしばらく別として、その以外のものは公々然として不飲酒戒を破ることを恥づる所なく、酒は酒でなくて般若湯である等と称し、この詭弁巧言に互に興じ合いつつ大盃を傾けて豪飲するものが多い。さらにまた寡婦を奸し少女を脅かして得々然たるものも少なくない。かくの如き無頼漢をも凌ぐ魔僧共が、清浄なる殿堂を穢しつつ、なおその腐爛の肉を包むに金襴玉裳を着け、虚偽生活の毒菌を無垢の人々に植付けているのである。かの殿堂も往事は、精神浄化の道場であった、道徳向上の修練所であった。然るに現今に於ては、虚偽生活の震源地である。精神悪化の孵化場であると言うも誰かこれを否定するものぞ。思い一たびここに至れば夏なお肌の寒きを覚えるのである。

さらに一歩を進めて検討するならば、実は僧は僧でなくして魔僧であり法は法でなくして死法である。現代の教法は僅に形骸を留める死滅の教法である。要を約むと十無二有の言葉で表現することが出来る。

□ 世界無僧無仏法 世界に一人も比丘はなし、故に仏も法もなし。
□ 天台無根律無行 天台教義に根拠なし、律には真実行為なし。
□ 真言無真日無戒 真言誤読で真言なし、酒飲む日蓮戒律なし。
□ 念仏無教禅無燈 念仏往生仏語なし、禅は偽作で伝燈なし。
□ 皆無教化無実効 それ故一切教化なし、社会に実効毫もなし。
■ 徒有迷信虚偽生活 空しく在家に迷信あり、出家は虚偽の生活のみ。
■ 並有害他流毒国家 それゆえ自他を害しつつ、毒を国家に流すなり。
(これ等の教義的実証の説明は本論中に譲ってここには略す)

真の出家僧は我国にいないばかりでなく、世界のいずこを尋ねてもこれを見ることが出来ないのが現代の実情である。たとい出家僧と呼ばれるものがあっても、これは名のみであって実はその名に伴っていない。何故ならば彼等の中の一人でも、真に禁受蓄金銀宝学処を持つものがないからである。セーロン、緬甸[ビルマ]等では形式上この禁戒を持っているように見えるものがあるけれども、内実には金銀を受けてこれを蓄えているのである。実に現代は正法五百年、像法五百年も過ぎ去って、真の出家僧はいない時代である。釈尊が賢劫経や、仏臨涅槃記時経や、大涅槃経等に於て教示せられたそのままが実現しているのである。真の出家僧はない時代である。随って出家が護持する仏法もない時代である。かくの如く、出家僧のない現代に於て、出家の相貌をして清浄生活と聖僧行義を外面に示すことは、取りも直さず虚偽である、虚偽に陥るのが当然である。或はこれがためにか彼等の中にはわざと俗服を著けて、自ら得たりとするものがあるけれども、これはたまたま醜い内容を外面に露出したまでであって、彼等は依然として出家僧の特権と幸福を享受しているのであるから、盗人猛々しとも評すべき暴挙である。いづれにしても現代に於ける仏教の伽藍、精舎、寺院、殿堂等仏聖の名に属するものは、悉くみな虚偽生活という毒水濁流を発出する源泉である。

かくの如き源泉は如何にせば浄化出来るか。これは時代に適当しない出家仏教を廃して、仏陀直示の在家[ウパーサカ]仏教を興起させることの一事があるばかりである。これに関する三有の言葉をここに提示する。

■ 真有優婆索迦仏教 真実教と云うべきはウパーサカ仏教あるのみぞ。
■ 富有現代真実生活 これには現代適当と真実生活あるのみぞ。
■ 故有除害利益国家 されば総ての害をのぞき国家に利益あるのみぞ。

詳密なる説明はこれを本論に譲るも、ここに一言を呈して、諸君子の注意を願いたきことは、ウパーサカ仏教は大乗仏教即ち菩薩仏教の根源であって、この教法を信奉するならば、何の世何の時を問わず、よく相応して虚偽なく、欺瞞なく、真実に仏教と一致して浄化向上の一路に進むことが出来るのである。これこそ実に現代における弊害の由って来る所を根本から革正する要道であって、この教法を実行宣揚しない限りは、社会も国家もこれを救済することが断じて出来ない。

言う迄もなく基督経、印度教、マホメット教、拝火教、神道、儒道、道教等の大宗教が存立し、いづれも社会国家の浄化向上に努めている。しかも理学哲学の進歩した今日に於ては、果してこれらの宗教が現代人をして首肯させることが出来るか、頗る大なる疑問である。これらの諸宗はそれぞれの独断[ドグマ]をもっているから、この独断に圧伏されて自己の理性の光りを消滅する人々のみには信奉されるであろう。けれども理性の是認を起点として進行するとするならば、これらの諸宗教は現代人には不適当であると言わなければならない。これに反して、仏教はその本性あだかも黄金の如く、理性のあらゆる強い能力で、打ち敲き、磨り研き、さらに火に焼くに益々燦然[さんぜん]たる光輝を放つものである。かるが故に将来かの欧米人等も真の文化に進み行くならば、いよいよこの真性黄金の仏教を究め、その本質の光輝を発見し、観天喜地、以て尊き理会の上に信心を起すこととなるであろう。早くも既にその徴候は十分に見えている。

向後益々世界的にならんとする仏教は、誤解に出発する南方仏教徒の涅槃思想であってはならない。即ち涅槃那[ニルバーナ]を灰身滅智[かいじんめっち]都絶虚無[とぜつきょむ]とする外道的思想であってはならない。釈尊在世の砌[みぎ]り、かかる誤解からして自殺したものが多数出来たので、釈尊はいたくこれを御戒めになったのである。これを今の世に再び繰り返すの愚を学んではならない。また大乗と行っても宗教的偏狭心から一二の経典のみを偏重して、同じ仏陀の諸経を蔑視抑下してはならない。なおまた欧米の理解ある人々は、基督教の神の救済的独断を以てするのは当を得たものでない。阿弥陀仏の他力救済は基督教のそれに比べると、余程哲学的に説明されていはいるけれども、欧米人には一種の言訳とより外には受取れないであろう。実際に浄土門は言訳で出来上った、言訳上手の宗旨である。他力救済の無根に愛相盡かしをしている欧米人に対して、こんな信仰を強いても全く無効である。されば世界に宣揚するに足仏教は、宗派的仏教であってはならない。阿弥陀や大日や妙法や観音の本尊仏教であってはならない。釈迦牟尼仏の仏教でなければならない。しかも釈尊直説の教法中、比丘出家的のものは過去の者で、既に死滅に帰し、これを現代に宣揚するが如きことがあると、益々虚偽を重ねて罪過を深からしめるものである。ただウパーサカ仏教のみが、現在及び将来の世界を浄化向上する力のあることを発見した。これ余が中心からウパーサカ仏教を高調する所以である。

大正十五年四月十五日武州大宮町東角井別墅森口氏寓にて

雪山道人 慧海 識(『河口慧海全集Ⅴ』世界文庫刊行会)

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