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五戒とは、在家信者のたもつべき五つの戒めです。サンスクリットならびにパーリ語では、pañca sīlaと言います。
人が仏教徒となるためには、まず仏法僧の三宝に帰依しなければなりません。そしてさらに五戒を僧侶から受ける、あるいは五戒を保つことをみずから宣言するのが一般的です。と、いっても、五戒を受けず、または形式的に受けてはいても全く守っていなくとも、社会的に仏教徒であることは可能です。むしろ、世間にはそのような人のほうが多いでしょう。
五戒とは、以下の内容のものです。
No. | 戒名 | 戒相(抄) |
---|---|---|
1 | 不殺生戒 | いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 |
2 | 不偸盗戒 | 与えられていない物を、故意に我が物としない。 |
3 | 不邪淫戒 | 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。 |
4 | 不妄語戒 | 偽りの言葉を語らない。 |
5 | 不飲酒戒 | アルコール類を飲まない。 |
これらは、在家の仏教徒としての根本的行動指針、徳目です。
補足ながら、第五番目の戒は、いかなる酒であってもこれを飲まない、というのが仏典にある規定であり、故に不飲酒戒であるわけですが、近年は酒に加えて麻薬など、「人を陶酔させるもの全般」を戒めたものだとの解釈のもと、説かれることがほとんどです。
少々話がそれますが、飲酒戒は「人を陶酔させるもの全般」を戒めるものであって、「中毒性を有するもの」を戒めたものではありません。
また、仏教には、釈尊ご在世当時にはタバコなどなかったため、仏教の戒にも出家者の律にも、不喫煙戒などというものがありません。これを盾に、「私は仏教徒であり、よって酒は飲まないけれどもタバコは吸うのだ」という人が、大乗・小乗を問わず、また僧俗問わずしばしば見られます。
別段、タバコを吸うことが悪だなどとはありません。が、出家者がタバコをスパスパやっている姿を好ましいものと考える人は少なく、故にこれを嫌う人・批判する人がやはりあります。
五戒、それは仏教の在家信者の戒であって、禁止事項ではなく行動指針です。
出家者の場合は、沙弥の十戒に始まり、比丘の二百五十戒あるいは具足戒などと言われる律、つまり罰則などを伴う禁止事項に、五戒に該当する条項すべてが含まれており、より詳細な規定がなされています。律は、戒と異なって、僧侶であろうとする以上は、必ず守らなければならないものです。
余談ながら、日本仏教界では、僧侶が律をほとんど全く守らない、と言うよりこれを受けたことも無く、全然知らないのが当たり前といった状態であり、それが「伝統」ともなっています。よって、僧侶が在家信者に対して五戒を説いたとしても説得力がまるでなく、誰も守らないのは当然といえば当然でしょう。
”戒とは何か”にてすでに述べたように、戒はあくまで自分自身の意志で受け、守っていくものです。誰かから「守れ」と強制されるものでも、守らなかったからといって罰せられるものでもありません。これを守るか守らないかは、個人の自由意志にゆだねられます。
ただし、仏教が示すところの悟り、解脱、涅槃を得ようとするのであれば、最低でもこの五戒を受け、出来るだけ保っていく必要があります。
戒は、「何故その行為を戒めるのか」という観点から、性戒[しょうかい]と遮戒[しゃかい]という分類がなされます。
性戒とは、その行為そのものが悪(性罪)であるから、これを戒めたもの。遮戒とは、その行為が悪しき行為へとつながる可能性の大(遮罪)なることから、これを戒めたものです。五戒を、この性戒と遮戒という見方から分類すると、以下のようになります。
戒名(五戒) | 戒の性 |
---|---|
不殺生戒 | 性戒 |
不偸盗戒 | |
不淫戒 | |
不妄語戒 | |
不飲酒戒 | 遮戒 |
この性戒と遮戒という戒の分類法からすると、殺生・偸盗・邪淫・妄語は、その行為そのものが悪である、と規定されていることがわかるでしょう。そして飲酒について、この行為自体は善でも悪でもないが、悪しき行為を引き起こす可能性が高い行為であるとされています。
この分類を盾に、「遮戒であるなら、すこしくらい破っても良いだろう。問題ない」と言う者があります。しかし、これはまったく遮戒というものを誤解していることの証ともいうべき主張です。
五戒のうちの飲酒戒について、つまり性戒と遮戒について、このような例え話が、『大毘婆沙論[だいびばしゃろん]』という仏典に説かれています。
ちなみに、『大毘婆沙論』は、小乗といわれる部派仏教のうちの一派、インドで最大の勢力をもっていた説一切有部[せついっさいうぶ]の論書『発智論[ほっちろん]』の注釈書で、編纂当時の諸師の様々な見解が伝えられています。漢訳仏典で最大の全二百巻。さながら仏教百科事典とも言えるほど膨大な内容をもっています。
大乗の諸宗派では主に、この説一切有部の学説・見解を踏襲するのが伝統とされています。
この書の綱要書とも言える『倶舎論[くしゃろん]』は、説一切有部だけではなく、大乗を学び実践する者にとっても必読の書の一つで、これを読み理解しておかなければ大乗を語ることなど出来ない、と言って良いものです。
曾聞有一鄔波索迦。禀性仁賢受持五戒專精不犯。後於一時家屬大小當爲賓客。彼獨不往留食供之時至取食。醎味多故須臾増渇。見一器中有酒如水。爲渇所逼遂取飮之。爾時便犯離飮酒戒 。時有隣雞來入其舍。盜心捕殺烹煮而噉。於此復犯離殺盜戒。隣女尋雞來入其室。復以威力強逼交通。縁此更犯離邪行戒。隣家憤怒將至官司。時斷事者訊問所以。彼皆拒諱。因斯又犯離虚誑語。如是五戒皆因酒犯。故遮罪中獨制飮酒。
このような話を聞いたことがある。性格が温厚で賢く、五戒を常に保っている、まじめな在家信者の男があった。ある時家族に大勢の来客があって、彼は独り食事をとったが、その料理はとても塩辛く、たちまち喉が乾いてしまった。目の前には水のように澄んだ酒がある。男は喉の渇きに堪えられず、ついにこれを飲み、飲酒戒を破ったのだった。その時、隣の家で飼っている鶏が男の家に入ってきた。そこで男は盗心をもってその鶏を殺し、煮て食べてしまう。ここにおいて、男は殺生戒と偸盗戒を破ったのであった。すると、隣の家の女性が鶏が迷い込んでいないか、と尋ねてきたのであった。勢い男はこの女性を強姦し、邪淫戒も破ってしまう。隣の家の者達はこの男の非道に忿怒して役所に訴え出る。そこで役人が事の真偽を確かめるべく男の家を尋ねて問いただした。すると男は、「事実無根」と虚言したのであった。これによって男は妄語戒もやぶり、ついに五戒をすべて、酒によって破ってしまったのである。このようなことから、遮罪にはただ飲酒のみが挙げられるのである。
玄奘訳『阿毘達磨大毘婆沙論』巻123(T27, P644b)
[日本語訳:沙門 覺應]
さて、以上の話を聞いて、「そんなの大げさすぎる」「そりゃ極端な話だ」と思う人もいるでしょう。「私は酒に強いから大丈夫」だと言う人もあるでしょう。たしかに大げさな、極端な話と言えるでしょうが、そこはあくまで例え話。いや、実際に同様の事件があったのでしょう。かといって、酒を飲んだら皆が同じ事をするわけはありません。
しかし、巷間「千丈の堤も蟻の一穴から」などと言われ、「割れ窓理論」などが言われるように、どのように些細と思われることでも、それを放っておけば重大な事態を引き起こすことになりかねないのは、今やよく知られたことです。
些細と思われることであっても、行きすぎれば不祥事を起こしかねないがそれ自体が悪とは言えないようなことであっても、それらを等閑視あるいは無視していれば、とんでもない惨事や不祥事も起こりかねないことは、現実の事象をながめれば、否定しえないでしょう。不飲酒戒についても同様です。
故に、飲酒は遮罪であり、不飲酒戒は遮戒のあるといわれます。
(不飲酒戒についての詳細は”飲酒戒-なぜ酒を飲んではいけないのか-”を参照のこと。)
また別の観点から。いうまでもなく、酒は人を酔わすものです。如実知見[にょじつちけん]を目指す仏教者が、いったいどうして酔ってよいでしょう。「無明長夜の酔いから醒めぬ」状態にあって、なぜことさらに酔いを重ねるというのでしょう。故に戒めるべき行為なのです。
戒とは、防非止悪[ぼうひしあく]のものです。
非行を防ぎ、悪行を止めるためのものです。戒はこのようなものですから、どうして飲酒という行為自体は悪でも善でもないから、飲酒したところ酔わなければで問題ない、と言えるでしょう。
どうして、酒によって人生が狂ってしまった人、酒によって取り返しのつかないあやまちを犯してしまった人と、自分とは違うなどと言えるでしょうか。
飲酒戒は、遮戒です。で、あるからが故に、人はむしろこれを守ったほうが良いのです。
非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)
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