真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 真人元開 『鑑真和上東征伝』

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1.原文

榮叡普照留學唐國已経十載雖不待使而欲早歸於是請西京安國寺僧道航澄観東都僧德淸高麗僧如海又請得宰相李林甫之兄林宗之書興揚州倉曹李湊令造大舟備粮送遣又與日本國同學僧玄朗玄法二人倶下至揚州是歳唐天寚元載冬十月日本天平十四年歳次壬午也時大和尚在揚州大明寺爲衆講律榮叡普照至大明寺頂禮大和尚足下具述本意曰佛法東流至日本國雖有其法而無傳法人日本國昔有聖德太子曰二百年後聖教興於日本今鍾此運願大和尚東遊興化大和尚答曰昔聞南岳思禪師遷化之後託 生倭國王子興隆佛法濟度衆生又聞日本國長屋王崇敬佛法造千袈裟棄施此國大德衆僧其袈裟縁上繍著四句曰山川異域風月同天寄諸佛子共結來縁以此思量誠是佛法興隆有縁之國也今我同法衆中誰有応此遠請向日本國傳法者乎時衆黙然一無對者良久有僧祥彦進曰彼國太遠生命難存滄海淼漫百無一至人身難得中國難生進修未備道果未剋是故衆僧緘黙無對而已大和尚曰是爲法事也何惜身命諸人不去我卽去耳祥彦曰大和尚若去彦亦隨去爰有僧道興道航神崇忍靈明烈道黙道因法蔵法載曇靜道翼幽嚴如海澄観德淸思託等廿一人願同心隨大和尚去

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2.書き下し文

栄叡・普照、唐国に留学して、已に十載を経、使を待た不と雖とも、早く帰んと欲す。

是に於て、西京安国寺の僧道航・澄観、東都の僧徳清、高麗僧如海を請し、又、宰相李林甫が兄林宗が書を請ひ得て、揚州の倉曹李湊に与て、大舟を造り、粮を備て送遣せ令む。又、日本国同学の僧玄朗・玄法の二人と倶に下て揚州に至る。是の歳、唐の天宝元載冬十月日本天平十四年歳次壬午也

時に大和尚、揚州大明寺に在して衆の為めに律を講す。

栄叡・普照、大明寺に至て、大和尚の足下を頂礼して、具さに本意を述て曰く、仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖も有伝法の人無し。日本国に昔し聖徳太子と云人有り。曰く、二百年の後、聖教日本に興んと。今此の運に鍾る。願くは、大和尚東遊して化を興たまへ。

大和尚答て曰く、昔し聞く南岳の思禅師2、遷化の後、生を倭国の王子に託して、仏法を興隆し、衆生を済度すと。又聞く、日本国の長屋王3、仏法を崇敬して、千の袈裟を造て、此の国の大徳・衆僧に棄施す。其の袈裟の縁の上に四句を繍著して曰く、山川異域、風月同天、諸の仏子に寄せて、共に来縁を結すと。此を以て思量するに、誠に是れ仏法興隆有縁の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請に応して、日本国に向て、法を伝る者の有んや。

時に衆黙然として一りも対ふる者の無し。

良久して、僧祥彦と云もの有り、進て曰く、彼の国太た遠して生命存し難し。滄海淼漫4として、百に一りも至ること無し。人身得難く5、支那生し難し。進修未た備はら未。道果未た剋せ未。是の故に、衆僧緘黙して対こと無きのみ。

大和尚の曰く、是れ法事の為なり。何そ身命を惜ん。諸人去ら不んは我れ即ち去んのみ。祥彦曰く、大和尚若し去らば、彦も亦随て去ん。

爰に僧道興・道航・神崇・忍霊・明烈・道黙・道因・法蔵・法載・曇静・道翼・幽厳・如海・澄観・徳清・思託等の廿一人有り。心を同して大和尚に随ひ、去んことを願ふ。

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3.現代語訳

栄叡と普照は、唐に留学してからすでに十年を経ており、辞令が出ていなくとも、早く帰国しようと思っていた。そこで、西京安国寺の僧道航と澄観、東都の僧徳清、高麗僧如海に請い、また宰相李林甫の兄林宗の書状を請い得て、揚州の倉曹李湊に差し出し、大舟を造り、食料を備えて送り届けさせた。そして、日本から同じく留学していた僧玄朗と玄法の二人と共に揚州に向かった。この歳、唐の天宝元載冬十月日本天平十四年歳次壬午也のことである。

ところで、この時大和尚は揚州大明寺に在して衆僧の為に律を講じられていた。そこで栄叡と普照は大明寺を訪れ、大和尚の足下を頂礼して、つぶさに自分たちの本意を明かした。

「仏法は(インド・支那から)東へと伝わって日本に至りました。しかし、その法(仏典)はあっとしても正統なる戒律を身に備えた人がありません。日本には昔、聖徳太子という人がありました。そのお人が言うには、二百年の後、聖教が日本に興るであろうと。今がまさにその時に当たります。どうか、大和尚、(日本へと)東遊されて教化して下さい」

大和尚は答えられた。

「昔聞いたことがある。南岳の慧思禅師が遷化の後、生を倭国の王子に託して、仏法を興隆し、衆生を済度されたという話を。またこうも聞いた。日本の長屋王という者が、仏法を崇敬し、千の袈裟を造って、この国(唐)の大徳・衆僧に寄進。その袈裟の縁の上には、四句が縫い著してあった。山川異域、風月同天、諸の仏子に寄せて、共に来縁を結す、ということを。これらのことをもって考えると、誠にこれは仏法興隆するに縁のある国である。今、我が同法の衆僧の中で、誰かこの遠国からの要請に応じ、日本に向かって、法を伝える者はないか」

しかし、衆僧は黙然として誰一人も答える者は無かった。しばし間をおいて、僧祥彦と言うものがあり、進み出て言った。

「彼の国へははなはだ遠く、(そこへ往くには)生命の大変な危険が伴います。滄き海はどこまでも広く、百に一つも無事に至り着くることはありません。人の身としてこの世に生まれることは得難く、ましてやこの支那に生まれることはさらに困難なことです。(我々は)修行途上の身です。道果もいまだ証しておりません。そのようですから、衆僧はただ押し黙って応答することが無いのです」

すると大和尚は言われた。

「これは仏法の為のことである。なんで身命を惜しむであろうか。諸人に行く者がないというのであれば、私が行くだけのことである」

祥彦は言う。

「大和尚が行かれるというのであれば、私祥彦もまた従って行きます」

ついに、僧道興・道航・神崇・忍霊・明烈・道黙・道因・法蔵・法載・曇静・道翼・幽厳・如海・澄観・徳清・思託などの廿一人が名を連ねた。心を同じくして大和尚に随い、(日本へと仏法を伝えるために)行くことを願ったのである。

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4.脚註

  • 聖徳太子[しょうとくたいし]…推古天皇代の摂政。用明天皇と穴穂部間人皇后と間に生まれた皇子。馬小屋にて生を受けたということから厩戸皇子などともいわれる。推古十一年(603)に冠位十二階の制を、翌十二年(604)に日本最古の成文法『十七条憲法』を制定して中央集権国家を築くための礎を築いた。また同十五年(607)には、小野妹子らを隋に派遣し、隋からあらゆる先進の文化を輸入せんとした。仏教の篤信家であったといい、南都の法隆寺や浪速の四天王寺を建立したという。また、みずから『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』をそれぞれ注釈した「三経義疏」(三つの経典の注釈書の総称)を著したと伝えられているが、この書の内容は相当に仏教に造形が深くなければ書き得るものではない。このような伝承のあることから、古来日本の仏教者には、聖徳太子を敬う者が多くある。聖徳太子に関してあまりに多くの伝説的伝承があるが、現在世間では、聖徳太子の歴史的実在を疑う説が学会に提出されている。→本文に戻る
  • 南岳の思禅師…支那南北朝代の僧(515-577)。天台大師智顗の師。晩年に南岳(湖南省)に銃していたことから南岳慧思と呼ばれる。支那天台宗第二祖にあげられる人。『大乗止観法門』などを著した。→本文に戻る
  • 長屋王[ながやのおう]…天武天皇の孫。高市皇子を父に、名部皇女を母にもつとされる。養老・神亀年間に右大臣から左大臣にまで進み、政治の実権を握ったが、謀反の疑い有りと讒言され、天平元年(729)に自害した。→本文に戻る
  • 滄海淼漫[そうかいびょうまん]…蒼海原が限りなく広いことをいった言葉。→本文に戻る
  • 人身得難く…六道あるいは五趣輪廻する中で、人身[にんじん]すなわち人としてこの世に生まれい出ることが非常に困難であること。それが如何に困難であるかを喩えるのに、盲亀浮木の譬えが古来しばしば用いられる。→本文に戻る

 

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