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‡ 栄西 『斎戒勧進文』

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1.原文

『齋戒勸勧文』

受灌頂一門衆并有縁道心衆早求出離應勤修齋戒勸進文

夫齋者不非時也。戒者菩薩戒也。億億萬劫人身難受。生生世世佛法難値。今度不種德本將何時生哉。若爲惡縁所牽褊此正法者後悔不可及。因茲榮西竊修梵行。遥傳正法爲開末代慧眼經奏聞被施行已畢。庶幾一門徒衆被資此行化者我願既満衆望亦足歟所勸者是非爲小比丘利潤皆以爲各各解脱至要也。佛言不念齋戒非我弟子云云
他門他人猶可耻此言況一門徒衆乎。在俗家尚可欣求何況出家道人哉。仍或約三年或限一期百年或年年両安居乃至一夏九旬。或在家六齋年三爲如法。四部弟子可報佛恩者也。六十六州同門知識各加署名具注限數耳。委曲在願文旨并興禪論云云
勸進之趣蓋若斯。

元久元年甲子孟夏初七日 比丘榮西敬白

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2.訓読文

『齋戒勸勧文』

灌頂1を受たる一門の衆、并に有縁の道心衆、早く出離2を求めて應に斎戒を勤修すべき勸勧文

夫れ斎とは非時3に食せざるなり。戒とは菩薩戒4なり。

億億萬劫5にも人身は受け難し。生生世世6にも佛法は値い難し。今度徳本を種へずんば将に何れの時に生ぜんや。若し悪縁の為に牽かれて此の正法7を褊[せ]みせば後に悔ども及ぶべからず。茲れに由て栄西窃に梵行8を修し、遥に正法を伝ひ、末代の慧眼を開んが為に奏聞9を経て施行を被るること已に畢ぬ。

庶幾くば一門の徒衆、此の行化を資け被れば我が願既に満す。衆望も亦足んか。勧る所は是れ小比丘の利潤の為めに非ず。皆な以て各各解脱10の為の至要なり。

佛の言く斎戒を念ぜずんば我が弟子に非ずと云云

他門他人猶ほ此言を耻ずべし。況んや一門の徒衆をや。俗家に在ても尚欣求すべし。何に況んや出家の道人をや。

仍て或は三年を約し、或は一期百年を限り、或は年年両安居11、乃至一夏九旬12、或は在家は六斎13年三14を如法と為す。

四部の弟子15は佛恩を報ずべき者なり。六十六州同門の知識、各署名を加て具さに限數を注せん耳。委曲は願文16の旨、并に興禅論17に在り云云

勧進の趣き蓋し斯のごとし。

元久元年甲子孟夏初七日 比丘栄西敬白

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3.現代語訳

『斎戒勧進文』

灌頂を受けた一門の衆、ならびに有縁の道心衆に、早く出離を求めて斎戒を勤め修める勧進文

そもそも斎とは、非時に食を取らないことの意である。戒とは菩薩戒である。

億億萬劫にも(わたって生死輪廻したとしても)人として生を受けることは難しいことである。生生世世にも仏法に出遇うことは困難なことである。今、この人として受けている間に徳行を積まなければ、いったい何時それを為し得ようか。もし、悪縁によってこの正法に背いたとして、それを後に悔いても遅いのだ。そのようなことから栄西は秘かに梵行を修め、遥かに(宋より)正法を伝えて、末代の人々の慧眼を開かんとして、奏聞を経て(禅と戒律とを)行うことをすでに許されたのである。

請い願わくば、我が一門の徒衆らよ、この行が広まるのを助けてくれたならば、我が願いは達せられたに等しく、また人々の望みも満足されるであろうか。このように勧めることは、この小比丘(栄西)の利潤の為などではない。それらはすべて、人々が解脱に向かうための至要となる為である。

仏陀は説かれたのである、「斎戒を念じることがなければ我が弟子にあらず」と。

他の宗門・他の人々もなお言葉を恥ずべきものである。ましてや我が一門の徒衆には言うまでもない。在家の者らであっても出離・解脱を求めるべきである。ましてや出家の道人であれば尚更であろう。

このようなことから(出家者ならば)、あるいは三年を約し、あるいは一期百年を限り、あるいは毎年の両安居、あるいは一夏の九十日間、あるいは在家ならば(一ヶ月における)六斎日・(一ヵ年における)三長斎月にて(斎戒を持すことを)如法とするのである。

(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷という)四部の弟子は、仏陀の恩に報いるべき者である。(日本全国)六十六州にある同門の知識よ、各々が署名を加えて、詳しくそれぞれが限りとする年月を記せ。その詳細は『願文』および『興禅護国論』に記した。

ここに勧進する趣旨は以上のごとし。

元久元年甲子1204孟夏〈四月〉初七日 比丘栄西敬白

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4.語注

  • 灌頂[かんぢょう]…サンスクリットabhiṣekaの漢訳語。灌頂とは、もともと印度における王位即位や立太子の際の儀礼で、その際に即位する王子がその頭頂に香水や香油などを灌がれる儀礼を伴うことから、漢語でかく意訳される。
     密教ではその儀礼を取り入れ、法を受ける者、そして受け終わった者が、受法の証として必ず受けなければならないものとされる。古来、これは真言・天台を問わず、日本密教においては、おおよそ三種の灌頂が行われてきた。その三種とは、僧俗問わずに行われる結縁灌頂[けちえんかんぢょう]、あるいは密教を本格的に学ぶ前に受けるべき受明灌頂[じゅみょうかんぢょう](学法灌頂)、そして金剛界ならびに大悲胎蔵生曼荼羅に依る、三密瑜伽法を残らず伝授したその仕上げとして行われる伝法灌頂[でんぽうかんぢょう](具支灌頂)。→本文に戻る
  • 出離[しゅつり]…サンスクリットniryāṇa、あるいはnaiṣkramyaの漢訳。世俗・世間を離れること。あるいは、生死輪廻の苦海から離れ逃れるために、仏道を進むこと。
     出離とは、発心して仏道修行せんとする者にはまず最初に求められる心構えであり、その態度。仏教をして、ただ「世間に立ち向かい克服し、そこでより良く生きるための教えが仏教である」だとか、「ただ出離だ解脱などと言っていては、いわば社会から逃げ出す負け犬の遠吠えに等しい。またそれでは社会の役になんら立たないであろう。仏教はあくまで社会を良くするため、その中で」云云といった類の理解をする者がある。無論、仏教はただ世間を否定し、社会から無闇に隠れることを推奨するものではない。けれども、いわば「そもそも社会は良いものだ」というが如き前提を自明とし続けていては、いくら仏教の術語や歴史、その思想を云云と傍観者的に解説することが出来たとしても、仏教自体を理解することは決して出来ないであろう。
     仏陀は説かれた、”subhānupassiṃ viharantaṃ, indriyesu asaṃvutaṃ. bhojanamhi cāmattaññuṃ, kusītaṃ hīnavīriyaṃ. taṃ ve pasahati māro, vāto rukkhaṃva dubbalaṃ. asubhānupassiṃ viharantaṃ, indriyesu susaṃvutaṃ. bhojanamhi ca mattaññuṃ, saddhaṃ āraddhavīriyaṃ. taṃ ve nappasahati māro, vāto selaṃva pabbataṃ."「(この世の)美しきをこそ見て過ごし、感覚したモノゴトにおいて抑制せず(感覚に振り回され)、食について不節制であり、怠けて努力しない者。それをマーラ〈魔羅・悪魔〉は打ち負かすであろう。風が弱い木を(打ち倒す)ように。(この世の)不浄さをこそ見て過ごし、感覚したモノゴトにおいてよく抑制して(感覚の従者とならず)、食について節制し、信あり、専念して努力する者。それをマーラは打ち負かすことがない。風が岩を(揺るがせぬ)ように」(Dhammapada, Yamakavagga 7-8, KN. 2.1
     また、この他の関連事項として別項“前方便”がある。参照のこと。→本文に戻る
  • 非時[ひじ]…正午から翌朝の日の出までの時。沙弥であれ比丘であれ、また大乗であれ声聞乗(小乗)であれ仏教僧であれば、正午以降翌朝に太陽が昇るまで食事(固形物等)を摂ってはならない。その規定を不非食戒といい、あるいは単に斎戒という。斎戒は出家だけではなく、在家にも説かれている。在家信者に説かれた戒には五戒および八斎戒があるが、八斎戒の斎はまさしくこの意。詳細は別項“八斎戒”を参照のこと。
     余談であるが、不非時食戒には例外がある。それは比丘あるいは沙弥が、病気や栄養失調などで虚弱となっている場合である。そのような事態に陥っている出家者は、非時であっても固形物や乳製品など、通常は採ってはならない食をとることが許されている。現在、日本の禅宗や真言宗の僧堂・修行道場などでは夕食を当然のように取っているが、これを薬石だとか薬食[やくじき]などと称していることがある。それは、そのような不非時食戒の例外にかこつけ、「これは食ではない。薬なのだ!薬ならば許されているのであるから」などと、自身らは全く五体満足・健康至極であるにも関わらずまったく都合のいい解釈をなし、言い換えてのことである。
     日本人の、そのようなあるモノゴトの名称をただ言い換える習慣。たとえば、梵網戒では肉食を禁じており、昔の大乗の僧はこれに当然従うべきと建前上していた。けれども、やはりそれをどうしても食べたい昔の僧侶らが、鳥の卵を「白茄子」と言い、小魚の佃煮を「折れ釘」などといい、あるいは酒を「般若湯」と称して飲食していたこと。また近いところでは旧日本軍が撤退や退却を、体裁が悪いことから「転進」と言い換えていたこと。あるいは現在では左巻きの人々が障害者の害という字について「害とは嫌な感じである」と主張して「障がい者」と書き換えようと試み、また自殺を「殺などとは穏やかでない」「殺というと遺族が傷つく」「遺族感情に配慮して変更しろ!」などと主張しだして「自死」と言い換え、その本質をごまかそうとしていることなど。そのような主張に大した思考もせずに乗っかり、「障がい者」「自死」などという言葉をさも配慮した結果かのように使う人が比較的多いのには閉口するばかりである。
     同じ日本人ながら、そのような言葉上のみ表面的にとりつくろい、それで本質やその内容が変わるわけなど全くないのに、建て前上は有耶無耶にしてしまおうとする一般的日本人の性癖には呆れずにはいられない。
     そういえば、ウル覚えのことであるけれども、明治維新の世においてcompetitionという英単語の訳をどのようにすべきか問われた福沢諭吉先生が、「競争」という訳語を発案して提示された際、これを聞いた相談者が「争とは穏やかではない。もっと穏当な文字を使って欲しい」などと言い出し、これを先生は大いに呆れたという話があったように思う。これもまた、似たような精神から生じた話であろう。
     よく言えばそれも文化、なのであろう。これを言霊文化などと称する人も有るかもしれない。こう考えると文化という言葉も、なにやら都合の悪いことをごまかしたり、無理やり肯定的に表現する時に使えるすこぶる都合の良いものと思えてくる。が、そのような精神は往々にしてご都合主義的・消極的影響を社会に与え、あるいはモノゴトの本質を人に隠すものともなりえるであろう。しかし、それは今に始まったことではないのであった。→本文に戻る
  • 菩薩戒[ぼさつかい]…ここで栄西禅師は斎戒について、斎(不非時食戒)と戒とに分け、さらにその戒を菩薩戒であるとしている。
     ここにいう菩薩戒とは三聚浄戒のことであるが、それは『瑜伽師事論』や『菩薩地持経』所説のいわゆる瑜伽戒ではなくて、三聚浄戒のうち摂律儀戒を十重四十八軽戒、摂善法戒を八万四千の法門、饒益有情戒を六波羅蜜・四摂心としたものである。これは、栄西禅師の著には他に『受菩薩戒作法』が伝わっているが、ここで禅師は菩薩戒として三聚浄戒を挙げてそれぞれ以上の内容とするものとしていることによって知られる。
     栄西禅師は日本にて比叡山の僧として梵網戒を受け、すでに学んでいたであろう。しかしこれを真に受け、また(最澄が主張したような菩薩戒単受などでない)その実際のあり方を学んだのは宋代の天台山においてであった。なんとなれば、当時の比叡山では律はもとより、菩薩戒すらまったく無視され行われていない状況となっていたためである。梵網戒については別項“十重四十八軽戒”を参照のこと。
     なお、禅師による『受菩薩戒作法』に見られる菩薩戒についての理解・記述は、後代の道元に相当なる影響を与えたものと見られる。たとえば、禅師は『受菩薩戒作法』において「今此戒中有十六種事。謂三歸戒三聚淨戒十重禁戒也。若心交若心散亂不成羯磨」と述べているが、これはまさしく道元が後に曹洞宗徒の出家者に対して課した十六条戒そのものである。道元は直接栄西その人から薫陶を受けたということはなかったようである。けれども、相当なる敬意をもっていたことが彼の著作から伺え知ることが出来る。彼、道元の戒律観は、栄西禅師の戒律についての所見のうちでもかなり限定的・部分的な点を採用し、あるいは中途半端な理解に留まって我が意としてしまったのかもしれない。→本文に戻る
  • 億億万劫[おくおくまんこう]…劫とは、サンスクリットkalpaあるいはパーリ語kappaの音写語、劫波[こうは]の略。古代インドの時間単位のうち、最長のもの。想像すら出来ないほどの宇宙的長大なる時間。そのような長大な時間を、さらに喩えようもないほど永きに渡って、幾度も幾度も生死輪廻を繰り返したとしても、人としての生を得ることが難しいことを言う。→本文に戻る
  • 生々世々[しょうじょうせぜ]…生まれ変わり死に変りして、幾世も繰り返し続けること。生死輪廻しつづけること。→本文に戻る
  • 正法[しょうぼう]…サンスクリットsaddharmaあるいはパーリ語saddhammaの漢訳語。正しい教え、あるいは真実の存在が原意であるが、総じては仏陀の教えを意味する語。
     正法という語を恣意的に「仏陀は八万四千の法門などと言われるほど多くの教えを説かれた。しかしながら畢竟、我が信奉するこの経典こそが唯一の正しい経典であって正法!」などといった類の理解をすると、ただちに不毛の地平、狂信者の宴が開かれることとなる。そしてそれが現実にいかなる人々によってなされ、またどのような事態を生じてきたかは、今更言うまでもないことであろう。→本文に戻る
  • 梵行[ぼんぎょう]…サンスクリットbrahma-caryāの漢訳語。ここでのbrahma(梵)とは「清らか」を意味し、特に性欲を制して一切の性行為を断じること。あるいはまたより広い意味で、持戒すること。→本文に戻る
  • 奏聞[そうもん]…天子(天皇)に申し上げること。奏上に同じ。→本文に戻る
  • 解脱[げだつ]…サンスクリットmokṣaまたはvimukti、あるいはパーリ語mokkhaまたはvimuttiの漢訳語。原意は解放、また自由。業によって生死輪廻し続けることからの解放。自身の業によって存在し続け、苦楽を受け続けることから解放されること。
     あるいはより卑近な意味では、自身の性格・性癖が理由となって、いつも同じようなことを行って同じ結果を生じさせ続け、それをまた知ってか知らずか自分で悩み苦しむことから開放されること。己を損なうモノゴトに執着しないこと。それによってまた平安を得ること。→本文に戻る
  • 安居[あんご]…サンスクリットvarṣavāsaあるいはパーリ語vassāvāsaの漢訳語。varṣaまたはvassaとは、雨あるいは雨季のこと。
     仏教の出家修行者は、釈尊ご在世の当時から、インドにおける雨季の三ヶ月間は原則として遊行など一切遠出せず一定の箇所に留まり、修禅などに打ち込まなければならない。そのようなことから、雨季(varṣa)に一定の箇所に住すること、すなわち安居と漢語で意訳されたのである。
     雨季といっても、実際は年によってその期間に長短がある。そこで、仏教では雨季のうち、インドの暦で第五の月(Śrāvaṇa)の十六夜より第八の月(Aśvayuja)の十五夜すなわち満月の日までが雨季であると定められた。この期間、出家者は必ずどこかの僧院や菴、あるいは洞窟や森林など一定の箇所に留まらなくてはならない。ただし、何らかの理由で、どこか一定の箇所を定めて安居に入ることが出来なかった者は、一ヶ月遅れて第六の月より第九の月の満月までの三ヶ月間でも良いとされている。前者は前安居といい、後者は後安居という。もっとも、後安居は例外であって、一般的には前安居が行われる。
     もっとも、そのような安居の習慣は仏教に始まったものではない。むしろその最初期には仏教の修行者達が雨季にあちこち遊行していたのである。しかしながら、それを当時の他の宗教家や思想家、あるいは在家者などから「雨季にあちこち出歩けば、雨季に活動的となる多くの虫などを踏み殺すこととなり不適切」・「雨季に出家者が遊行することはふさわしくない」とする批判・非難が続出。これによって、仏教の出家者もまた、雨季には一所に留まって過ごすことが義務として制定され開始されたのであった。また実際として、インド亜大陸におけるモンスーンの時期、それは大変湿度の高い日が続いて断続的な大雨が降るのであるが、そのような期間に遠方に移動することは甚だ困難なことである。それは今に至るまで変わらない。安居は当時のインドの宗教者らの常識、そしてその風土・風習に基づくものであった。
     ところで、安居を過ごした数を臈[ろう]というが、安居が正式に僧伽の年間行事として取り入れられてからは、安居を過ごした数によって出家修行者の立場の上下が測られるようになった。その者の年齢や能力、出自の上下多少はまったく関係なく、ただ臈の数の多少によってのみ席次が決まるのである。同じ臈数の者であれば、具足戒を受けた日時の早い者が上臈となる。これは全世界どこでも仏教の僧伽における秩序の大原則である。もっとも、そもそも日本仏教には僧伽、すなわち僧宝が存在しないため、そのような大原則すら知られず、また用いられようも無い。大変遺憾なことに、現在の律宗や禅宗で似たようなことが行われているけれども、それはあくまで布薩に似たもの、猿真似でしかない。
     なお、下臈の者は上臈の者に対しては、パーリ語ではBhadantaあるいはBhante(大徳・尊者)と呼びかけ、上臈の者は下臈の者に対してĀvuso(具寿)と呼びかけるなど、臈次[らっし](席次)の上下によって互いに用いる言葉が変わる。
     もし、出家修行者がなんらかの原因で安居の三ヶ月間を、たとえば一週間以上外泊したり、あるいはその途中で十三僧残罪などを犯したりしてしまうなど完全に過ごすことが出来なかった場合は「安居が破れた」こととなり、臈を積むことは出来ない。故にただ単純に「具足戒を受けてから何年」ではなく、「安居を何回正しく過ごしたか」が重要となる。
     なお、日本の禅宗では、本来の夏安居以外に冬安居という特異な期間を設け、安居を年二回行うことがある。しかし、それはただ冬ごもりを冬安居と称しているだけに過ぎないものであるため、冬安居を過ごしても臈を増やすことは出来ない。→本文に戻る
  • 一夏九旬[いちげくじゅん]…一夏とは安居の三ヶ月間のこと。九旬とは九十日のことで、三ヶ月間に同じ。なお、安居に入る日を結夏[けつげ・けちげ]といい、安居の終わる日を解夏[げげ]という。仏教の出家修行者はこの安居の期間、一夏九旬を一年の中心として生活していると言っても過言でない。→本文に戻る
  • 六斎[ろくさい]…六斎日の略。六斎日とは、在家信者が八斎戒を持すべきとされた、陰暦における一ヶ月のうち、八日・十四日・十五日・二十三日・三十日の六日間。それはすなわち半月、そして満月の日である。
     また、出家者にとってもっとも重要な月間行事である布薩[ふさつ](説戒)の日は、十五日そして三十日であって六斎日と重なる。八斎戒については別項“八斎戒”を参照のこと。→本文に戻る
  • 年三…一年のうち一月・五月・九月と三度ある長斎月[じょうさいがつ]のこと。この長斎月においては、在家信者であっても六斎日に限らず、一ヶ月間に渡って八斎戒を持すことが推奨された。→本文に戻る
  • 四部の弟子…出家・在家の仏教徒の総称。すなわち比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷のこと。仏教徒の総称には他に、より詳しく分類した七衆[しちしゅ]がある。詳細は別項“仏教徒とはなにか ―七衆”を参照のこと。→本文に戻る
  • 願文[がんもん]…あるいは栄西禅師による『日本仏法中興願文』のことか。しかしながら、この『斎戒勧進文』がしたためられたのは元久元年甲子孟夏初七日とされており、『日本仏法中興願文』は同じく元久元年甲子初夏ながら二十二日とあってやや遅い。すると、ここにいう願文とは『日本仏法中興』ではないが、しかし他に該当する典籍の存在を知らず。あるいはここにいう願文とは、この「斎戒勧進文」のことであろうか。
     『日本仏法中興願文』については、別項“栄西『日本仏法中興願文』”を参照のこと。→本文に戻る
  • 興禅論[こうぜんろん]…栄西禅師が建久九年〈1198〉頃までに著された主著、『興禅護国論』三巻の略。『興禅護国論』については別項“栄西『興禅護国論』”にてその全文の原文・訓読・現代語訳を併記し、また釈を付して詳説している。参照のこと。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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