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「末法味わい薄けれども教海もとより深し」とは、 高野山真言宗総本山金剛峰寺第411世座主・資延敏雄[すけのぶ びんゆう]が、真言宗諸派の御用新聞『六大新報』平成18年(2006)新年号に寄稿し、その巻頭を飾った文です。
それなりに仏典や漢書の素養がなければ、読解が極めて困難であろう言葉にあふれており、およそ「親しみやすく・わかりやすい」類の文言とは縁遠いものです。その内容は、真言宗全体ひいては日本仏教界の堕落しつくした有り様をなげき、まっとうな僧侶の現れる事を切望したものです。
それは、いわゆる管長職にあった者の書いたものとはおよそ思われない、すこぶる痛烈なものと言えます。というのも、率直に言って、現代の日本仏教界における管長職などというものは、いわゆる名聞利養を異常なまでに渇望し執着する、仏教とはおよそ縁遠い老人の名誉職だからです。
名目上は宗団の最高位である管長などというものは、ごく稀に例外はあるものの、どの宗旨宗派であってもほぼ等しく、その人(寺)の財力を背景にした人脈や金脈によって、(いちおう形式的に宗団内の選挙や推挙などを経て)その地位に就くものです。しばしばその管長選挙の際には、立候補者から有力者へ「実弾」が飛ぶなど、世間の選挙となんら変わりません。
決して、その人の徳高い行業や学徳・人徳などといったものによってなるものでなく、よって正しく高僧と言われるシロモノではまったくありません。世間での「管長さま」「長老さま」「老僧さま」などという言葉にまつわるイメージとは完全に真反対にあり、まさに「山高きが故に貴からず」といえるものです。また、普通、管長には宗団での実務に関する実権などなく象徴的な存在、お飾りの存在です。しかし、たとえお飾りであっても、殆どの場合はそのような地位にみずから就くことをあくまで望む者、名誉や地位を欲して止まない者がなる存在と言えます。
さて、古来、偉大な仏教者・高僧として讃えられる人のほとんどは、それぞれの時代における堕落した仏教界に対して、かなり辛らつな批判の言葉を残しています。道慈をはじめ、空海・最澄しかり、栄西・道元・明恵・叡尊・慈雲などなど、枚挙に暇がありません。もっとも、資延氏は「いわゆる管長」であった人であり、到底このような文言を残すような見識・学徳のない人でした。
その内容は、もっぱら僧侶・寺族に向けて書かれたものであり、また意図的に、僧侶でもある程度の仏教や漢籍の素養があってその意味を正確に把握出来る者のみを対象としており、まったく一般向けのものではありません。が、これが現代の真言宗の実情、ひいては日本仏教界に対する警鐘として優れたものであり、真言宗の御用情報誌に掲載されただけの一記事として埋没させるには惜しいものであるため、ここに語注などを付して掲載しました。
表題となっている「末法味わい薄けれども教海もとより深し」とは、鎌倉中期の華厳宗の凝然大徳による『八宗綱要』にある一文です。
意味は「仏陀の教えが忘れられ軽んじられ、実行もされない時代にあっては、本当の仏陀の教えがいかなるものか理解しがたく、その優れた点も見い出しがたい。けれども、そのように時代・社会が変化しようとも、仏陀の教え自体が広大偉大なものであるのにかわりない。その教えの海に潜って真を求めれば、必ずその果を得られだろう」というほどのものです。洒落た一文を『八宗綱要』という名著から探り採り、その題としたものです。
この文言に述べられているように、近い将来、日本仏教界に戒律復興を実現させる雄志ある人の出現を、切に望んでやみません。
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このサイトで紹介している「末法味わい薄けれども教海もとより深し」は、『六大新報』2006年新年特別号巻頭に掲載されたものである。
難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。
語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語、その出典を示す必要のある引用、あるいは漢籍に由来する言葉、現代ではあまり使用される事はない言葉などに適宜付した。
沙門 覺應 (horakuji@gmail.com)
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