真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 貞慶 『戒律興行願書』

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1.解題

解脱上人貞慶

画像:解脱上人貞慶(唐招提寺蔵)

戒律興行願書』とは、中世初頭、鎌倉前期に活躍した興福寺出身の法相宗僧、解脱上人貞慶[じょうけい]〈1155-1213〉により、承元年間〈1207-1211〉の頃に著されたとされる書です。

貞慶とは、藤原南家の藤原通憲[みちのり](信西[しんぜい])の孫、藤原貞憲[さだのり]の子であった人です。信西が平治の乱で失脚して死に、縁座によってその子息であった父貞憲もまた失脚した〈一般に土佐に流罪となって殺されたとされるが、実際は京で出家入道して生西と名乗っていた〉ことにより、信西の子で興福寺にて出家していた叔父の覚憲[かくけん]に引き取られて僧となっています。

貞慶は、そのような藤原氏出身とは言え没落した家柄の子弟であったものの、叔父でありその師でもある覚憲の元で学問の研鑽にいそしみ、やがてはその学徳の高さと弁舌の鋭さ・巧みさで頭角を現しています。ついには、官僧としての出世に必須であった数々の大きな論議法会、いわゆる南都三大会[なんとさんだいえ]に出仕し、その将来を嘱望される存在となっていきました。

しかし当時、出家などと言ってもそれは名ばかりのことで、南都にしろ北京にしろ並み居る諸大寺の内実は貴族の庶子の処世の場に過ぎず、俗世における門閥貴族社会の引き写しというべきものでした。学僧として行う数々の仏典の読誦・研究など、そのような「出家社会というもう一つの俗世」における出世のため術に過ぎず、ただ知識と弁舌のみ鍛えてその実践など一切しないし出来ない、という頽廃した状況であったのです。

画像:出家は二度する

貞慶はそのような当時の出家社会を嫌い、と言ってもそんな単純な話でも無かったのでしょうけれども、建久四年〈1193〉の三十九歳のころ、ついに興福寺を出て遁世。山深い笠置寺に入っています。

遁世とは、本来、脱俗して出家することを意味する語です。しかしながら、中世となると、すでに僧として出家していながらも、もう一つの俗界と化していた大寺院などから出、多くの場合は都市部から離れた山間部や地方の小寺院・庵に入ることを意味するようになっています。それは、いわば「二度目の出家」というべきものを示す語で、それを果たした者を遁世僧と云いました。

それにしても遁世とは面白い語で、中世に「二度目の出家」といった意味で用いられるようになったのは、当時の僧俗の人々も仏教界が全く堕落していることを自覚していたからこそのことであったのでしょう。

遁世[とんせい]の 遁は時代にかきかへむ 昔は遁 今は貪

遁世の「遁」の字は、時代を経て書き換えられる。
昔は「(俗世から)遁れる」であったが、今は「(俗世を)貪ぼる」である。

無住『沙石集』三
[現代語訳:沙門覺應]

さて、貞慶は笠置に遁世したとはいえ、しかし興福寺を捨てて絶縁したというのでは全然なく、以降も興福寺のために様々に力を尽くしています。貞慶の活動は実に幅広く、興福寺復興のための資材をつのる勧進はもとより、興福寺の末寺としての唐招提寺の復興にも携わっていました。

そもそも貞慶は藤原氏一族の人であり、言うまでもなく興福寺は藤原一門の氏寺であって、法相宗の本拠にして大和一国を統べていた大寺院です。そのような興福寺と縁など切れようはずもなく、そのような意志も全く無かったでしょう。

法然が布教を開始していた専修念仏の浄土教に対し、これを国家として停止させるべきことを興福寺一門を挙げて求めた『興福寺奏状』がありますが、それは貞慶によって起草されたものです。そして、それを起草した元久元年〈1204〉は、貞慶が興福寺を出て笠置寺にあること十年を過ぎた頃のことでした。

『戒律興行願書』

貞慶は、仏教の篤信者であった公卿、藤原長房[ながふさ]の信を受け、様々にその後援を受けていました。そして承元四年〈1210〉、藤原長房は仏教への信が嵩じ、貞慶が笠置寺から移ってまた律学の道場として中興していた海住山寺[かいじゅうせんじ]において、ついにその弟子として出家。覚真[かくしん](慈心坊)との法名を得ています。

貞慶が本書『戒律興行願書』を著したのは、ちょうどその頃のことです。

さて、やや後代の律僧でもあり密教僧でもありまた禅僧でもあった無住一円は、この頃の興福寺および東大寺戒壇院の有り様がいかなるものであったかを生々しく、そして端的に伝えています。

唐の龍興寺の鑒眞和尚、聖武天皇の御宇、本朝に來て、南都の東大寺、鎭西の觀世音寺、下野の藥師寺、三の戒壇をたて給ひ、毘尼の正法をひろめ、如法の受戒を始め行ぜしかども、時うつり儀すたれて、中古より只名ばかり受戒というて、諸國より上りあつまりて、戒壇はしりめぐりたるばかりにて、大小の戒相もしらず、犯制の行儀もわきまへず。わづかに臈次をかぞへ、虚しく供養をうくる僧寶になりはてて、持齋持律の人跡たえぬる事をなげきて、故笠置の解脱上人、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁をえらびて、持齋し律學せしむといへども、時いたらざりけるにや、皆正躰なき事にてありけれども、堂衆の中に器量の仁を以て、常喜院と云ふ所にて、夏中の間、律學し侍り。持齋すべき供料なんどはからひおかる。夫も夏をはれば、持齋もせずして、如法の儀なかりけるに、近比かの學者の中より發心して、如法の持律の人、世間におほし。かの本願上人の御志の感ずる所にや。

 唐の龍興寺の鑑真和尚は、聖武天皇の御宇に本朝に到来し、南都の東大寺・鎮西の観世音寺・下野の薬師寺に三つの戒壇を建てられ、毘尼vinaya. 律〉の正法を広めて如法の受戒を始め行じられた。
 けれども、時代が移るとその儀は廃れてしまい、中古〈平安時代〉よりただ「名ばかり受戒」と云って、(僧となろうとする者が)諸国より(東大寺に)上り集まって、(戒を授受する両人共に自身らが何をしているかも解らず)戒壇の上を走り巡るだけのこととなった。(そのような者らは、戒壇院で受戒したといっても形式ばかりのことで)、大乗〈菩薩戒〉・小乗〈律〉の戒相〈戒律の具体的内容〉も知ることはなく、犯制〈僧侶としての禁則〉の行儀をわきまえてもいない。(夏が終われば)ようやく臈次〈比丘としての席次。安居を過ごした回数〉を数えるばかりで、(比丘としての内実など全く無いにもかかわらず、)虚しく供養を受けるだけの(偽の)僧宝に成り果たのである。
 持斎持律の人跡が絶えてしまっている事を嘆いた故笠置の解脱上人〈貞慶〉は、如法の律儀を興隆する志を深くし、六人の器量〈才知優秀〉の人を選抜して、持斎〈持戒〉・律学させた。しかしながら、その時機にはまだ至っていなかったのであろう、その皆がまるで本来からかけ離れた有様であった。そこでまた、(興福寺東西金堂の)堂衆の中から器量の人を選んで常喜院という所にて、夏中〈夏安居の三ヶ月〉の間、律を学ばせ、(常喜院にて)持斎させるための供料〈経費の布施〉など工面したのである。しかし、それも夏〈安居〉が終わったならば、(常喜院の律学に参加していた者等が)持斎することなどなく、如法の儀など行われることはなかった。
 ところが近頃〈嘉禎二年以降〉、その(常喜院の)学者の中から発心して如法の持律の人〈覚盛等〉が出たことにより、今や世間に多く見られるようになった。これは、かの本願上人〈実範〉の御志の果報というものであろう。

無住『沙石集』三 「律學者の學と行と相違の事」
[現代語訳:沙門覺應]

ここで無住は、「故笠置の解脱上人、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁をえらびて、持齋し律學せしむ」と言っていますが、常喜院を覚真が建立する以前、貞慶は六人の堂衆を選んで律学の稽古をつけていたようです。

それは、律学の道場であった海住山寺においてのことであったかもしれません。ところが、それも「時いたらざりけるにや、皆正躰なき事にてありけれ」といった有り様で、だからこそ貞慶は新たに律学の専門道場を建てる必要性を感じたのでしょう。

その律学に携わった六人の実態がどのようなものであったかを、無住は上の一節に続き、以下のように伝えています。

さて彼六人の内に、名も承りしかども忘れ侍り。持齊もやぶりて、僧房に同宿兒共あまたをきて、昔の儀すたれはてて、兒にくはせんとて、佐保河といふ河にて、魚をとらせて、我身はひたひつきの内にゐて下知し、弟子の僧火たきて、まへの爐にて、生きたる魚をにるに、鍋の湯のあつくなるまゝに魚すびつにをどりおつ。愛弟の兒これをとりて、手水桶の水にすすぎて鍋に入る。房主此を見て、よし/\よくしたり/\。兒共はそれ體におめぬがよきぞといふ。同宿の僧、烏帽子引入れて火たきけるが、これは犯戒には何にて候べきぞと問へば、聲聞戒には波逸提、菩薩戒には波羅夷也と答ふ。戒相は誠に明々なれども、威儀はことの外に散々の事にこそ。學と行とたがひたる事、一國の風儀久しくなれるにや。佛法滅せん事は、天魔外道のあたはざるところ也。わが未來の弟子うしなふべし。師子の死せるをば、餘の獸の食する事あたはず。師子の身の中より、虫いでて食するがごとしと説き給へり。

 さて、その六人の中に、名を聞いたけれども忘れてしまったが、持斎することを辞めてしまい、僧房に同宿の子供〈男色・小児性愛の対象としての稚児〉を数多置いていた者があった。それまでの(貞慶の勧めによって学んでいた)律儀など捨て去ってしまい、その子供らに食わせるため、佐保河という河で魚を取らせて自分はひたいつき〈?〉の中からアレコレと下知〈指図〉していた。そこで、弟子の僧は火を焚き、その前の爐で生きたままの魚を煮ようとした。すると鍋の湯がだんだん熱くなって、その魚がすびつ〈囲炉裏〉に飛び出てしまった。そこで愛弟の児〈特に寵愛していた稚児〉がそれを取り、手水桶の水ですすいでまた鍋に入れたのだった。房主はそれを見て、
「よしよし、よくやった、よくやった。子供というものは、それぐらい(魚を生きたまま煮殺すのも躊躇しない程)に物怖じしないのが良い」
と言ったのである。
 また、その同宿の僧は、烏帽子〈成人男性〉を(僧房内に)引き入れて火を焚いていたのであるが、(その男が僧に)
「これ〈魚を煮殺して食べること〉は犯戒でいえば、どのような罪となるのでしょうか」
と問うたところ、
「声聞戒〈律〉であれば波逸提prāyaścittika. 軽垢罪〉であり、菩薩戒では波羅夷pārājika. 最重罪〉である」
と答えた。
 (彼ら最初の律学の徒らは、)戒相〈戒律の具体的条項〉について(知識として)は誠に明々であったけれども、威儀〈振る舞い・外形〉は殊の外に散々であった。(そのような律学の徒だけでなく、日本の僧徒ら皆の)学と行とが相違している事は、一国〈日本全国〉の風儀となって久しくなったのであろう。
「仏法を滅ぼすことは、天魔外道の為し得るものではない。我が未来の弟子が(法を)失わせるのである。それはあたかも、死んでしまった師子を他の禽獣が食べることは出来ないが、師子の身体の中から寄生虫が湧いて食べるようなものである」
と(仏陀は)説かれている。

無住『沙石集』三 「律學者の學と行と相違の事」
[現代語訳:沙門覺應]

無住はもちろんそれを直接見て書いたわけでも、その僧などから直接話を聞いてこれを書き取ったわけでもありません。しかし、貞慶が勧進して初めた当初の律学の僧らが以上のような体たらくであったという話は、無住の時にまで語り継がれていたのでしょう。

実際、それが事実(でないにしても似たような実態)であったろうことは、貞慶没後に海住山寺を継いでその第二世となった慈心坊覚真〈藤原長房〉による置文〈覚真覚書〉から伺い知ることが出来ます。律学の道場であったはずの海住山寺であっても、その住僧らはいまだ酒と女とに溺れ乱れていたようで、それを覚真が諌め制する文が残されているのです。

さて、しかし律学を専門道場を新たに建立して行うというのであればなおさら、それを支える一定の経済基盤、継続的な予算というものを背景としなければ現実のものとすることなど到底出来ません。故に貞慶はそのような経済基盤、経済的支援を国あるいは貴族などから得る必要があり、実際そのための努力もしていたようです。

貞慶自身、当時の律学の荒廃ぶりと僧徒の頽廃ぶりを目前にしていたからこそ、そして自分もまた律儀を全うなどしていなかったために、その命あるうちに戒律復興を果たし得るなどとは全く考えていなかったようです。しかし、むしろその故に、なんとか現実的な道筋だけでもつけておこうとの悲壮な決意を持っており、その表出が『戒律興行願書』でありました。

貞慶の第一の所願、すなわち興福寺内に律学の専門道場を建立することはそれほど時を経ずして果たされています。建暦二年〈1212〉、その弟子覚真が、貞慶の戒律復興の意を受け、興福寺内に新たに一宇を建立したのです。それが常喜院です。

貞慶はそこで、ここに若く優秀な僧二十口を定員として集め、専ら律蔵やその諸注釈書の学習・研究を開始させています。

しかし、常喜院が立てられて三年も経たぬ元仁二年〈1213〉二月、貞慶は五十九歳でその寿を終えています。貞慶没後、常喜院における律学の振興は戒如[かいにょ]が引き継ぎ、先にも述べたように海住山寺は覚真が継いで、それぞれ戒律復興のための礎を築いています。

貞慶がいまだ健在であった時、常喜院の律学の徒として最初に参加した僧二十口の中、その最年少者が、嘉禎二年〈1236〉に同志の叡尊[えいそん]や有厳[うごん]・円晴[えんしょう]と共に戒律復興を果たし、やがて唐招提寺の中興の祖となる覚盛[かくじょう]でした。『沙石集』にて無住が、「近比かの學者の中より發心して、如法の持律の人、世間におほし」と云ったのは、覚盛らとその後進のことです。

といっても実は、その覚盛も、常喜院での律学に参加している時に深酒して酩酊するなど醜態をさらしていたことが、むしろ叡尊の日記によって知ることが出来ます。覚盛は当初、律学をあくまで学問・教養の一つとして行っていただけのようで、同時に学侶として立身出世を目指していました。覚盛は叡尊と異なり、最初から真剣に戒律復興など志していた訳ではなかったのです。

さて、そしてまた無住は、「かの本願上人の御志の感ずる所にや」とそれが「かの本願上人」の果報であると述べていますが、それは貞慶よりさらに時代を遡ること少しの平安末期(十二世紀初頭)、やはり興福寺で戒律復興の最初の狼煙を挙げた人、中川少将上人ともいわれた実範です。

実範が当時、戒律復興を志したのは、本来は律宗を本宗として東大寺戒壇院における授戒を仕切り、また律宗を興隆すべきはずの興福寺東西両金堂の堂衆がその役目をまったく果たさず、頽廃ぶりが目に余ると興福寺の学侶らに問題視されてのことです。

(実範についての詳細は、別項“戒山『中川寺實範律師伝』”を参照のこと。)

中世における戒律復興とは、それ時代時代の仏教者らの有り様を批判的に見、その問題点を解消あるいは改善するべく動いた人々の、様々な困苦と紆余曲折を経ながら努力してきた小さな成果の積み重ねの上に成り立ったものでした。それは、誰かが「戒律復興!」などと声を挙げた途端に成し遂げられたものでも、万事順風満帆に事が運んで短期間で成就したものでも勿論ありません。

それに関わった者らが「学と行と相違」するなど様々な矛盾や欺瞞を孕みつつ、しかしそうであっても戒律復興という志向は捨てさることなく、長い時間と多くの努力・資財を払ってようやく果たされたものです。

今、日本仏教は再々度にわたって戒も律も、それはやはり僧徒自らが捨て去ってきたことにより、蒸発して無くなって久しくあります。そこでこれを再び興すには、やはり近古に同じく、大きな努力と小さな成果の積み重ねをすることによって成し遂げられるに違いありません。何事も無から突如として生じるなどということなどありはしないのだから。

もっとも、近世江戸最初期の京都槇尾山にては、明忍律師ら五人の同志らにより、日本におけるいわば第二期戒律復興が果たされています。それは近古におけるほどの時間を要さず、一代で達成されたものでした。

(近世における戒律復興については別項“元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』”・“月潭『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』”を参照のこと。)

それが出来たのは、叡尊が入ってしばらくの後、新たに律宗の本寺として大いに繁盛するも室町期中頃から再び中世の貞慶以前の状況に逆戻りし、戒律など放棄して護持など全くされぬようになっていた西大寺に、しかし叡尊の思想と行業とが知識や典籍としては近世に至るまで相伝されていた為でした。明忍らがその西大寺に伝えられていた古人の道程を確かに踏襲し再現したからこそ、近世ではごく短期間で戒律復興が可能であったのです。

(ただ、それを開始することと継続することとはまた別の問題であって、その五人が短期間のうちに次々逝去してしまったこともあり、その戒律復興を継承・発展するに多くの困難に直面しています。しかし、ついに明治初頭までなんとかその流れは受け継がれていました。)

故にそれを果たさんとする者は、先ずは仏典の確かな根拠に基づき、そして先人の踏み行ってきた経緯や時代背景とを必ず知っておく要があります。

ここで紹介する『戒律再興願書』はまさに、その為に努め動いた人の願いと思いが綴られた書の一つです。

(同時代、『戒律再興願書』に類する願文を書いている人に、日本に臨済宗をもたらした栄西がある。別項“栄西『斎戒勧進文』”および“栄西『日本仏法中興願文』”参照のこと。)

貧道覺應 稽首和南
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『戒律興行願書』は、『日本大蔵経』第13巻所収のものを底本とした。

原文は漢文であるため、現代の人に読解しやすいよう、原文・書き下し文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・書き下し文・現代語訳のみの項を設けている。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。ただし、これは原文にではなく、書き下し文に付している。

本文に経論からの引用がされている箇所は、判明した範囲でその典拠を示した。それらは『大正新修大蔵経』による。例えば引用箇所が『大正新修大蔵経』2巻177項上段であった場合、(T2, P177a)と表示している。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

貧道覺應 稽首和南
(horakuji@gmail.com)

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