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『日本仏法中興願文』は、日本における臨済宗祖栄西禅師によって、齢六十二の元久元年甲子〈1204〉に著された書です。それは、当時の日本の僧尼にはほとんど顧みられなくなって廃れていた戒律を復興し、僧尼が再び厳持することによってこそ日本の仏教を中興せんとする禅師の願いと決意とが表明された願文です。
栄西禅師の著作は、ただ『喫茶養生記』を茶人などが読む程度のことで、その他はほとんど世に知られていないものであるでしょう。その主著とも言うべき『興禅護国論』ですらただその題目が知られるのみであって、実際にその内容を読んでおり、また確かに解している人などまず極めて稀であるように思われます。
ましてやこの『日本仏法中興願文』にいたっては、一応臨済宗における僧職の門徒や一部の仏教学者を除いては、世にほとんど全く知られていない書でありましょう。
その故に、現代の臨済宗には総じて十五派あってその開祖とされる人でありながら、栄西禅師の思想、その実像を知る人もやはり実に少ないようです。
さて、栄西禅師が支那に盛んであった禅を本格的に学び、さらに天竺へ渡って当地の戒律厳重なる仏者の様相を学び、また八大仏塔に巡礼することを志して二度目の渡宋。その際、しかしそのインドへ往かんとする本懐は果たせなかったものの、期せずして天台山萬年寺の虚庵懐敞に師事することを得ています。
ついに臨済宗黄龍派の法統を受けて帰朝したのが建久二年辛亥〈1191〉、禅師齢四十九の時。
しかし、帰朝して禅を広めんと活動しだした禅師を待っていたのは、天台宗を主とする僧徒からの政治的妨害や(もはや批判ではなく)ただの甚だしい誹謗中傷でした。
もっとも、そのような誹謗中傷や妨害工作には、禅宗についての世情・背景というものが一応ありました。
それは栄西禅師が臨済禅を学び伝えるやや前、すでに摂津国(大阪)において達磨宗なる禅の一派を形成する者の存在、大日房能忍があったことによるものです。
能忍は、ただ禅の典籍を読むなどすることに由って無師独語し、禅の奥義を悟ったと自称していました。
しかしそれは、そもそも仏教はその法脈・血脈を重んずるのですが、禅宗においては尚更のことで、実際に誰にも師事すること無くそのように自称したとして、他者からその正統性も権威も認められるものではありませんでした。
そのようなことから、能忍は自身ではなく弟子二人を宋に派遣し、阿育王山にあった拙庵徳光なる禅師に師事させています。そしておそらくは相当の金品を贈って、能忍の文書を根拠として、その主張する禅に対する印可を得ています。
これによって威勢を得た能忍は、禅の宣揚を開始。しかしながら、どうやらその思想は邪教と称するに相応しい内容のものであったようです。
なにやら現代における新興宗教団体の教祖や、中年女性などを主たる商売相手としている下町の拝み屋などに見られるような話です。が、実際にそういう輩が当時すでにあったのです。あるいは、現代における新聞や雑誌などにてしばしば宣伝されている、怪しげな「通信得度」・「通信印可」の走りでありましょう。
そこで栄西禅師は、後に能忍をこのように激しく批判しています。
問曰。或人妄稱禪宗名曰達磨宗。而自云。無行無修本無煩惱元是菩提。是故不用事戒不用事行。但應用偃臥。何勞修念佛供舍利長齋節食耶云云 是義如何。答曰。其人無惡不造之類也。如聖教中言空見者是也。不可與此人共語同座。應避百由旬矣。
問う:ある者〈大日房能忍〉が妄りに禅宗を称え、これを達磨宗などと名付けている。そして自らこのように言っている。「行も無く、修も無く、本より煩悩も無く、すべては元々が菩提〈覚り〉なのである。そのようなことから、これと言って戒など守ることもなく、これと言った修行をすることもなく、ただごろ寝していれば良いのである。一体どうして念仏などを修し、仏舍利を供養し、長く斎戒を持して節食するなど苦労しなければいけないのか」と。これは一体どういうことであろうか。
答う:その者は悪として造らないことは無いといった類の者である。聖教〈経典・律蔵・論書〉の中に「空見」と言われる者である。この者とは共に語らい、同座してはならない。まさしく百由旬の距離をおくべき人である。
栄西『興禅護国論』第三門〈世人決疑門〉之餘
[現代語訳:沙門覺應]
そして、このような者の存在を、天台宗(比叡山)は許しませんでした。
といっても、天台宗は能忍の思想をまっとうな仏教思想をもって批判し、これを妨害したわけではありません。そもそも平安期末の天台宗自体が、能忍が主張したのと同じような非常に極端な本覚思想を唱えだしていたのです。いわゆる中古天台です。
よって結局、その思想はどちらも似たようなものであって、比叡山は仏教が云云などと言うその建前としてはともかく、能忍の思想内容を批難したのではなかった。
比叡山は、そもそも新たな宗を建てようとする者が存在すること自体を許そうとしませんでした。
(当時、比叡山がどのようなあり方をしていたかは、別項“十重禁戒”を参照のこと。)
そのような中にあって、建久二年辛亥〈1191〉、宋にて臨済禅を学び受け帰国した栄西禅師は、僧はすべからく持戒持律して禅を修めるべきことを主張していました。が、比叡山は、達磨宗とは別個であっても同じく「禅宗なるもの」が新たに勢力を持つことを禁制しようと、盛んに朝廷に働きかけたのでした。
その結果、建久五年甲寅〈1194〉七月五日、大日坊能忍および栄西禅師による禅宗の活動・布教を停止せよとの宣旨が下されます。
ところで、そもそも新たな「宗」を建てようとする者を否定的に見るのは、天台宗だけではなく、南都(奈良)にある諸宗においても同様でした。
時代が少々前後しますが、例えば元久二年乙丑〈1205〉十月、法然〈1133-1212〉が浄土宗(念仏宗)を私に形成して世間で活動していたのに対し、解脱上人貞慶〈1155-1213〉を中心とした興福寺の学僧らは九箇条からなるその過失を連ねあげ、これを阻止しようと朝廷に奏上しています。
いわゆる『興福寺奏状』です。
その中、「新宗を立つる失」を第一として、以下のように言われています。
興福寺僧綱大法師等誠惶誠恐謹言
請被殊蒙天裁永糺改沙門源空所勧専修念仏宗義状
右謹考案内有一沙門。世号法然。立念仏之宗。勧専修之行。其詞雖似古師。其心多乖本説。粗勘其過。略九箇条。
第一立新宗失。夫仏法東漸後。我朝有八宗。或異域神人来而伝受。或本朝高僧往而請益。于時上代明王勅而施行。霊地名所随縁流布。其興新宗開一途之者。中古以降絶而不聞。蓋機感已足。法将不応之故歟。凡立宗之法。先分義道之浅深。能弁教門之権実。引浅兮通深。会権兮帰実。大小前後。文理雖繁。不出其一法。不超其一門。探彼至極以為自宗。譬如衆流之宗臣海。猶似万郡之朝一人矣。若夫以浄土念仏名別宗者。一代聖教唯説弥陀一仏之称名。三蔵旨帰偏在西方一界之往生歟。今及末代始令建一宗者。源空其伝燈之大祖歟。豈如百済智鳳太唐鑑真。称千代之規範。寧同高野弘法叡山伝教。有万葉之昌栄者乎。若自古相承不始于今者。逢誰聖哲面受口擇。以幾内証教誡示導哉。縦雖有功有徳。須奏公家以待勅許。私号一宗甚以不当。
興福寺僧綱大法師等、誠惶誠恐して謹しみ言し奉る
「殊に天裁を蒙り、永く沙門源空が勧める専修念仏の宗義を糺改せられることを請う状」
右、謹んで近頃の事情を考えたところ、一人の沙門があります。世間に法然と号する者であります。念仏の宗を立て、念仏専修の行を人々に勧めております。その主張は、(天竺・支那など)古の諸師のものに似たように思われますが、しかしその本質は多くの点で仏教に乖いたものとなっています。おおよそながらその過失を勘案してみれば、略して九箇条あります。
「第一 新宗を立てることの過失」
そもそも仏法東漸の後、我が国には(真言宗・華厳宗・天台宗・三論宗・法相宗・律宗・成実宗・倶舎宗の)八宗が行われています。あるいは異域の神人が来たって伝授し、あるいは本朝の高僧が海を超えて伝えたものです。時には上代の賢明なる帝の勅によってこれが行われ、(日本各地の)霊地・名所において、その縁に従って流布してきたものです。そこで新たに宗を興して一道を開く者など、中古より以降、絶えて聞かぬものであります。思うに(我が日本国には)もはや必要が無かったからであり、あるいは(新たな)教えが伝わるのに相応しい時機でなかったことが原因であったかもしれません。
およそ「宗」を立てるための法は、まずその義道の浅・深を分かち、よく教門の権・実をわきまえ、浅を引いて深に通じさせ、権を会して実に帰すものです。大乗・小乗の前後など、その文理は煩雑でありますが、その一法を出るものではなく、その一門を越えないものであります。その至極を探り、もって自宗とすること。それは譬えば諸々の川の水が大海に流れ入るようなものです。あるいは(日本に)諸国・諸地方があるとはいえ、ついには一人〈天皇〉に礼するのに似たものであります。
もし、(法然の主張する)浄土の念仏をもって別宗などと認めたならば、仏陀一代の聖教すべては、ただ阿弥陀一仏の称名のみを説き、(経・律・論の)三蔵が畢竟帰すべきところは、ただ偏に西方極楽浄土への往生のみだということになりましょう。
今、この末代の世となって始めて(浄土宗なる)一宗を建てようというのであれば、源空〈法然〉がその「伝燈の大祖」だということになるでしょう。一体、(法然は自分自身を)百済の智鳳や大唐の鑑真のように千代の規範師と称し、あたかも高野山の弘法大師空海や比叡山の伝教大師最澄に同じく、万葉の昌栄ある者だと言うのでしょうか。もし、「(法然の主張する念仏の法は)古より相承されてきたものであって、今に始まったものではない」と主張するのであれば、一体誰々が聖哲に逢って目の当たりに口説・講伝を受けてき、一体いかなる内証を以って教誡示導してきたというのでしょうか。たとえ(法然の浄土教が)功あり徳あるものだとしても、先ずはすべからく公家に奏上し、(新たに宗を建てることの)勅許を待たなければなりません。私勝手に一宗を号することは、甚だ不当なことであります。
『興福寺奏状』(*原文中、誤字誤植と思われる文字は太字とした)
[現代語訳:沙門覺應]
これは闇雲に新たな宗を建てようとする者を弾圧しようとした動き、いわば既得権益者が革命を起こそうとする新興勢力をひたすら潰そうとした挙などではありませんでした。実際、彼らは念仏自体、極楽往生を願うこと自体を批難など微塵もしていない。
それはあくまで、当時の「法然の主張するところの浄土教」、そして特には「その法然の浄土教を信奉する者ら」にあまりに多くの問題があったがための措置であったことが、今挙げた『興福寺奏状』の「第一立新宗失」だけではなく、その全文を見たならば理解し得ることでしょう。
さらに併せて、これは法然がすでに死去した後のことながら、かの栂尾明恵上人によって建暦三年癸酉〈1213〉に提出された「法然の主張するところの浄土教」(『選択本願念仏集』)に対する、激烈な批判の書である『摧邪輪』三巻を見たならば、法然のそれがどれほどの主張であったかを知るに違いない。
そして比叡山もまた、貞応三年甲申〈1224〉には法然亡き後の、親鸞などその信奉者・追従者らの専修念仏の活動に対し、その停止を求めた『延暦寺奏状』を提出しています。
さて、以上に挙げた『興福寺奏上』「第一立新宗失」にも述べられているように、「宗を建てるには、その明瞭なる根拠とその経歴・法脈を示さなければならない」ということ。そして、日本国の制度として「天皇(朝廷)に奏上してその勅許を待たなければならない」こと。
南都諸宗は栄西禅師の禅宗に対して、法然の浄土教に同じく朝廷に奏上し、これを停止させようとはしませんでした。しかしそれでも、それらは当時、栄西禅師もやはりどうしてもしておかなければならない、いわば義務でした。
故に栄西禅師はそのような時代背景にあって、それらの動き・勢力などに対し、まず自身の伝える禅と能忍の達磨宗なるものが根本から異なることを言わねばなりませんですた。
また、比叡山から禅宗を建てようとすることへの妨害や非難に対しては反駁・批判し、そして南都六宗や真言宗など旧来の諸宗派に対して「禅」の正統性を立証し主張するためにも、諸仏典の根拠およびその法脈・血脈をも明示しなければなりません。
さらには、禅師の主義・目指すものとは真逆であった、当時流行を見出していた「法然の主張する、戒律・修禅一切無用とする易行道としての浄土教」に対する批判と是正をも併せてする必要もあった。
その結果著されたのが、いま禅師の主著として知られている『興禅護国論』三巻です。
それは建久六年乙卯〈1195〉から九年戌午〈1198〉、すなわち禅師齢五十三から五十六までの間のことです。
(『興禅護国論』については、別項“栄西『興禅護国論』”にてその全文の原文・訓読・現代語訳を併記し、また釈を付して詳説している。参照のこと。)
言うまでもなく、鎌倉期初頭とは、それまでの公家政治から武家政治への一大転換期であった時代です。禅師はその後、漸くとして京都の公家らからの信仰を集めていっただけでなく、その頭領であった源頼朝の正室北条政子や二代将軍源頼家など武家の外護を受けることとなります。
これによって京都には建仁寺、鎌倉では寿福寺など、その拠点となる寺院が出来るのですが、それから程なくして著されたのがこの『日本仏法中興願文』です。
『日本仏法中興願文』は、仏菩薩へのいわゆる起請文の如きものでなく、またまるで形式張ったものでもない、ただ偏に栄西禅師自身の思いと願いとを吐露したものとなっています。
それはまた同時に、当時の仏教界、野放図に堕落していた僧侶らの有り様への厳しい批判に満ちたものともなっています。それは、禅師が六十二歳という齢にあってもなお仏教自体を、戒律を復興することによって果たさんとする情熱、そして悲壮感すら溢れた動機によってのものでありましょう。
この禅師による願文の内容自体については本文に譲るとして、このような内容の願文が著された背景にあった、これは現代にてもほとんど同様ではありますが、当時の日本仏教における僧尼のはなはだ堕落した有り様というものがどれほどのものであったかを知らねばならない。
そしてまた、そのような様態を見せるようになった一大要因として、特に最澄による『山家学生式』および、おそらく平安後期に最澄の名のもとに捏造された書『末法灯明記』の内容とその影響とを知る必要があります。
(別項“最澄『山家学生式』”および“最澄『末法灯明記』”を参照のこと。)
また、それら書の前提として、最澄が大乗の僧徒にはこれのみで事足りるとした『梵網経』所説の大乗戒、いわゆる十重四十八軽戒とは一体どういう性質のものであるかをも知っておかなければならないでしょう。
(別項“十重四十八軽戒”を参照のこと。)
ところで、この『日本仏法中興願文』が一体誰に読まれることを前提としているのか。
それはその冒頭、「敬って十方三世仏法僧宝併びに護法の聖者に白して言さく」とあって、三宝および諸賢者・聖者だとされています。しかしながら、その内容は京都の公家など朝廷の人々を相当意識したものとなっています。
ここで、それが鎌倉の世の実権をまさに握らんとしていた鎌倉幕府ではなく、あくまで京都の公家であることに注意。
前述の通り、願文が書かれたのは元久元年甲子〈1204〉ですが、すでに武家政府たる鎌倉幕府が開かれてはいました。しかしながら、その影響力は、東国においては強固であったものの、畿内など西国にその力はいまだ強く及んでおらず限定的というのが実情でした。
朝廷は朝廷として、いまだその権威と威光を西国を中心に及ぼし得る状況であって、公家の世に戻るのか武家の世へと全く移りゆくのかまだどちらとも言えない、不安定なものであったようです。
鎌倉幕府すなわち武家の時代となることがまさしく決定的となるのは、栄西禅師が逝去してしばらく後の承久三年〈1221〉に起こった承久の乱にて、後鳥羽上皇らが完全に破れてからのことです。
さらにいうならば、武家社会の完全なる確立は、貞永元年〈1232〉、武家による武家のための初めての法律たる『御成敗式目』(『貞永式目』)が制定・施行されたことによる、とも言える。
この点を留意してこの願文を読んだとき、禅師は武家からの外護を受けていたものの、しかし武家が台頭して日本の政を掌握せんとしていることを、ある意味否定的に見ていたことを知るでしょう。
いずれにせよ、この『日本仏法中興願文』には、禅師が将来した臨済禅をこそ広めんとする言葉など一つとしてありません。
勿論、禅師には、宋の天台山にて嗣法した臨済禅を高く尊いものとして、しかし日本には修行されていないものとして、これを広めようとする意図は強くあったと思われます。
そして禅師からすれば、これは『興禅護国論』に記されていることでありますが、宋代の支那において行われていた禅宗寺院の生活は、まさしく出家者が戒律に則った生活を送るためのいわば「仏教者にとってあるべき僧院」の姿でした。それは日本にては、もはや見られぬものであったのです。
そのため、日本に帰朝されて建てていった寺院が勢いその様式を写したものとなることは当然であったでしょう。
いわゆる宋代の支那における禅宗(宋国百丈山)の建築様式・伽藍構成のもと建てられた京都の建仁寺。それは、密教を執り行うための真言院および天台を修学するための止観院を具えてはいたものの、その中心はあくまで宋代の禅宗様式の伽藍構成でした。
にも関わらず、それが禅寺などではなく四宗兼学の道場であるとしたのは、そのような理由からであったに違いない。
なんとなれば、これは繰り返しの言となりますが、禅師が理想とした仏教僧であれば当然であるはずの戒律に則った生活と、宋で経験した禅宗寺院の様式とその生活とは、不可分のものとして実行されていたのだから。禅師にとって、支那の禅宗の生活様式と、僧としての持戒持律の生活様式とは不可分のものであったのでしょう。
密教を行ずるにせよ止観を学ぶにせよ、持戒持律を根底とするならば、そのような禅宗寺院の形式や・生活様式れをそのまま倣いとすることは必然であった。
しかし、これがもし禅師がその希望通りにインドに渡り、そこでの僧院生活を経験していたならば事情はまったく異なっていたことでしょう。けれども、それは実現されなかった。
いずれにせよ栄西禅師には、法然や親鸞・日蓮・道元などがそうであったような、鎌倉時代に流行した「一向」や「専修」・「選択」という意識は皆目なかったようです。これは、栄西禅師の直弟子など、比較的時代の近いその門流の禅僧の人々にも見られる傾向であったようです。
さて、鎌倉の当時とは時代も社会も全く違えども、日本の僧尼がおよそ仏教の僧侶などとは到底言えないような様態を呈していることにおいては、それほど変わらない現代。
いや、それほど変わらぬなどというのではなく、もはや僧尼ら自身がそのような有り様を恥と思うことすら全く無くなっており、仏教自体をすらまるで知らぬ存ぜぬとなってる点で、さらに酷い有り様であると断じて間違いないこの平成の世。
下手をすると、有閑文化人を相手とするただの言葉遊びや詮ない伝承に過ぎなくなった公案や、茶や華、書など風流人気取りの手習い・手遊び等をのみ大事として、もはや生死一大事などまるで歯牙にもかけなくなっているのが大勢となっているが如きさもしき有り様。
それでも、世に知られぬそれほど大きくもない一地方の禅堂・僧堂においてひっそりと、しかし連綿と、いわゆる禅病・僧堂ボケを発症してしまっている人もあったとしても、また本来の戒律などまるで無知であって我流我説の規則をもって仏祖正伝などと言いつつ行っていたとしても、それなりに禅の流儀で道を求める人々はきっと今もあるでしょう。
けれども、その大勢としては禅そのものの思想、また、日本で花開いた禅にまつわる諸文化・芸術が、ほとんどの寺家にとってはもはや社会に売り込んで食い扶持を稼ぐための商材に過ぎなくなっている哀れな現状は、もはやいかんともしがたいものとなっているのかもしれません。
日本仏教の特徴として、根本の祖師たる仏陀釈尊を差し置いて、その宗祖を持ち上げ絶対視し、崇拝していることが挙げられ、「祖師無謬説」などと時に揶揄されることがあります。
ところがしかし、その実際は「すでにこの世にないオソシサマ」をただ舌先三寸で祀り上げているだけのことであって、肝心要であるはずの祖師の遺志・思想などまるで馬耳東風のご都合主義となっているのは、いずれの宗派においてもまったく変わりないことでありましょう。
悲しきかな、末世というならこれを末世といわずして何を末世というべきか。
いや、それはまさしく人の性。
人の世がこのような浅ましい様態を見せるのは、いつでも変わりないことであるからこそ、世界はまさしく娑婆すなわち忍土である、と仏教では言われます。
しかしながら、そのような世であっても、いや、そのような世であるからこそ、ここに愚かな宗我など以ってせず、ただ先仏・先徳の尊ばれた規矩をこそ倣いとして一宗に拘泥することなく諸宗兼学し、生死一大事の如何せんとの志を持つ。
そして、栄西禅師やその他の仏教復興に心を砕かれた諸大徳に同じく誓願を立てる。
そのような、ただ独りの仏者として、仏道を歩む人の少しでも現れることを願ってやみません。
非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)
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このサイトで紹介している『日本仏法中興願文』は、昭和十年〈1935〉に京都建仁寺から刊行された『日本仏法中興願文』を底本とした。
原文は漢文であるため、原文・書き下し文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・書き下し文・現代語訳のみの項を設けている。
原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、書き下し文では、適宜現行の漢字に変更した。
原文では段落など設けられていないが、ここでは読解の便に資するよう、適宜段落を設けた。
現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。
難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。
脚注として、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。ただし、これは原文にではなく、書き下し文に付している。
原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。
非人沙門覺應(比丘慧照) 敬識
(By Araññaka Bhikkhu Ñāṇajoti)
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