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‡ 慈雲『根本僧制』

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1.解題

『根本僧制』とは

画像:糞掃衣を着用した慈雲尊者

『根本僧制』とは、江戸中期の大阪を中心として活躍された慈雲尊者飲光によって著された書で、当時の大阪高井田長栄寺において初めて宣揚された、「正法律」の基本原則が示されたものです。

それは寛延二年1749七月、尊者三十二歳の時のことでした。

この書が執筆されたときこそがまさに、慈雲尊者をして尊者たらしめた瞬間。正法律という仏教を復古しまた同時に刷新せんとする旗印を掲げ、尊者および法楽寺一門、そしてその同志・信者たちの根本的指針となっていった大変重要なものです。

その内容は短いながらも、尊者の唱道された正法律というものが如何なるものであったかを知るに絶好の資料であり、また現在の日本においても道を求める人にはまことに有益な指針となるに違いありません。

では、正法律がいかなる意味・内容を持つ言葉であるかを示す前に、まず慈雲尊者がいかにして正法律を宣揚するにいたったのかを示しておきます。

その経緯は、尊者が逝去されて後に弟子の明堂によって著されたその伝記、『正法律興復大和上光尊者伝』にて以下のように伝えられています。

一日證奮然請尊者曰。方今正法不絶縷。苟不急維持焉。恐佛日墜于地矣。自今後。事無大小。一順佛正軌。莫雑澆末弊儀。尊者曰。汝之志雖可嘉。其奈時未到何則不惟無裨于斯法。反来他謗矣。證曰。佛世尚有外道起謗。況今日乎。世雖濁濫。法水未悉枯涸。又幸有二三同志。秘護密持。今正是時。不可失矣。尊者大激其志。即従其言。作僧制以示同志。始号正法律。

 ある日、(慈雲尊者の弟弟子である)親證は奮然として(何事かを決意し)、尊者に求めて言った。
「まさに今、正法は絶えようとして、それはあたかもか細い糸のようです。本当に一刻も早く(仏法の興隆に努めて)維持しなければ、おそらく仏陀の威光は地に墜ちてしまうでしょう」
「今より以降、本来の僧侶としてなすべき行為・行事について大乗・小乗の違いなど問わず、何はともあれただ仏陀の定められたあり方に従い、(今の日本仏教におけるような)末世の誤ったあり方・習慣に随うことのないようにいたしましょう」
 尊者は(親證の願いに答えて)こう言われた。
「おまえの志は(たいへん崇高でもっともであり、それ自体は)喜ばしいものだが、(ものには好機というものがあって)それを行うに適した時機が到来していないのに断行してしまえば、結果として仏法を興せないというのみならず、むしろ他者からの誹謗を招くだけになりかねない」
 親證は答えて言った。
「仏陀ご在世のときにすら、外道に(仏陀を)謗る者があったのです。まして今日の(日本仏教界の)ような有り様ならば誹謗されることなど当たり前でしょう。しかし、世間の人倫乱れているとはいっても、(仏陀の教えという)法水すべてが枯れ尽きているわけではありません」
「また、幸いにも(ここ長栄寺には)二、三の同志がいて、(我々の志、目的を)軽はずみに吹聴して回るような者はいません。仏法を興すには、今まさに『時』なのです。この機会を失ってはいけません」
 (はじめは躊躇していたものの、ついに)尊者は大いに親證の志に奮い立ち、そして親證の勧めに従って『根本僧制』を著して同志に示し、始めて「正法律」を唱道されたのであった。

明堂諦濡『正法律興復大和上光尊者伝』(『慈雲尊者全集』vol.1
[現代語訳:沙門覺應]

これは、慈雲尊者がその師である忍綱貞記和上の命により、河内国高井田村の長栄寺(西之坊)に摂津国の法楽寺から愚黙親證・即成覺法・萬愚覺賢といった法弟らと共に入られ、その一年半後にはこれを律院僧房として結界して生活されていた中でのことです。

(もっとも、慈雲尊者がこの時はじめて長栄寺に入ったということではなく、まだ尊者が沙弥で野中寺にて受具される以前、一時的にではありますが長栄寺にて滞在されていたことがありました。その当時から長栄寺は法楽寺忍綱和上の管理下にあったのです。)

高井田村という当時の大阪からすれば辺境の寒村にあった長栄寺に住職として入られてのち、仏前に献ずる香にも事欠く赤貧洗うが如き中ながら、高潔の志を失うこと無く「たった一年半」でこれを律院僧房とするまで整備し得たのは、無論忍綱和上の力添えもあったことでしょう。

けれどもやはりその基となったのは、尊者ら志高き若き僧らの行業と、それに感じて信者となり経済的後援をした人々があってのことでありましょう。

わずか四人の若き求道者らは、毎日朝早くに托鉢に出てその日の糧を得、厳しく戒律を持って修禅に励む日を送られていたようです。それはまさに往時の仏陀とその弟子らの日々もかくや、と思わせるほど純一なものであったと、その時の様子が伝えられています。

そのような中、愚黙親證師が尊者に対していわば「たとえ非力であろうとも、今こそ我らで正法を護らん」との熱く激しい志をもってぶつかり、ついに尊者をしてこの活動を創始せしめられたのは、長栄寺にて初めてとなる具足戒の授戒を受け比丘となって二年たらずのことです。

そんな愚黙師はしかし、長栄寺にて共に修行する同法侶の中でもっとも純粋で、その行業もっとも気高いものであったといいます。

是時門人中。親證最賢而純懿。以匡衛正法為己任。動静云為。一効尊者所為。猶顔回於仲尼。尊者亦特器重之。間励学徒曰。汝曹以證之志為志。則大法其庶幾復振乎。

 この時、長栄寺の門人の中では、親證が最も智慧優れ、純粋にしてうるわしく、仏陀の教えを正し護ることこそ我が務めであると自負していた。その立ち居振る舞いは、ひたすら尊者に準じ倣うものであった。それはまるで顔回〈がんかい。孔子の弟子〉と仲尼〈孔子の字〉の間柄であった。
 尊者も特に親證を大切に思われ、ことあるごとに他の学徒を励まして言われたものである。「おまえ達の同志である親證のような志をもって自己の志とすれば、仏法も多少ながらも(仏教が正しく行われていた時代のように)再び盛んになるだろう」と。

明堂諦濡『正法律興復大和上光尊者伝』(『慈雲尊者全集』vol.1
[現代語訳:沙門覺應]

思えば、師忍綱和上の命によるものであったとはいえ、そもそも尊者が高井田の長栄寺に入られるきっかけとなったのもまた、当時はまだ沙弥であった愚黙師でした。

慈雲尊者に法を説くことを決意させ、さらに尊者に正法律を宣揚させることを決意させた愚黙師。いわば釈尊の梵天勧請の説話における、梵天の如き存在であった愚黙師。愚黙師の存在無くしては、慈雲尊者が江戸期の諸宗に名僧・高僧数多あるとは言えその随一とすら言える人となり、現代においてもなおその名を知られることなかったに違いありません。

そんな愚黙師はしかし、この『根本僧制』が著された二年後の宝暦元年(1751)三月十日、あまりにも早くその生涯を終えられています。

愚黙親證大禅師
於當寺剃染。河北高井田寺終。骸同寺葬。此大禅師者慈雲飲光尊者之上足徒也。尊者正法律再興偏依禅師之力者也。法四夏。世二十又四
大禅師愚黙親證尊者
當山忍綱尊者之直資。滅後隨葛城慈雲尊者而顕密及禅法修学。雲尊者正法興復依此師大願

愚黙親證大禅師
 当寺〈法楽寺〉にて出家。河北高井田寺〈長栄寺〉にて逝去。遺骸は同寺に葬る。この大禅師は慈雲尊者の高弟であった。尊者の正法律再興は、偏に禅師の力に依るものであった。法臘四夏〈法臘とは出家者としての年齢。夏は安居の意。四夏とは四度、安居を過ごしたこと〉。世寿〈享年〉は二十四歳。
大禅師愚黙親證尊者
 当山〈法楽寺〉の忍綱尊者の親族。(忍綱尊者の)滅後は葛城慈雲尊者に従い、顕密および禅法を学んだ。慈雲尊者の正法律は此の師の大願によるものであった。

『法楽寺過去帳』
[現代語訳:沙門覺應]

ここに記されているように、正法律はもっぱら愚黙師の大願によるもので、むしろ慈雲尊者は受動的にその愚黙師の思いに応じられ、正法律という仏教復興の御旗を立たれたのでした。

翻って考えてみれば、慈雲尊者が仏道を歩まれるきっかけのそのほとんどすべては受動的でした。

当初はまるで仏教など信じておらず、むしろ朱子学の儒者の影響で憎んですらいた十三歳の慈雲尊者が出家したのは、ただ亡き父の遺言に不本意ではあっても従ったまでのことでした。

しかし、師僧となったのは、その才を早くから見抜いていた当時の僧侶の中でもその徳行は群を抜いて高かったと思われる法楽寺の忍綱和上でした。慈雲尊者はその導きによって梵字と密教とを修められ、そこでようやく仏教というものが、それまで儒者に教えられて思いこんでいたようなまやかし、妄想や幻術の類ではないことを知られたといいます。

それはまず忍綱和上の教導に拠るところのもので、またその影には仏教に信仰篤かった母の影響もあったことでしょう。

そこでさらにやはり和上の指示により、儒教古学派の雄、京都の伊藤東涯の元に三年間遊学されています。

『根本僧制』を著された後の慈雲尊者が、仏教に限らず儒教についても神道についても原典をこそ重視して、後代の過度に思弁的であったり曲解・無根拠であったりする説を廃する復古的立場を取られたのは、伊藤東涯の元での修学が、それは本を正せばその父伊藤仁斎のということになるのでしょうけれども、必ず影響されていたことでしょう。

その後に慈雲尊者はさらに、これもやはり和上の指示に従ってのことだったでしょうけれども、南都に遊学して顕教を修め、そして大阪に帰って後に野中寺に入られて具足戒を受け、比丘となられています。

実は尊者が仏教に対して真に信仰を持ったのは、十九歳のおり野中寺にての修学中のことであったといいます。

そしてこれ以降、尊者はそれまでと異なって真に自主的・積極的に仏教を、中でも特に持戒と修禅について深めて行かれています。しかし、それでも尊者は依然として法を他に説くこと、仏教復興・戒律復興などほとんど念頭になく、むしろ時が経つほど否定的となられていったのでした。

そのような尊者をついに奮起させたのが、愚黙師その人だったのです。

さても父母と師と法弟とにまったく恵まれ、そしてその持って生まれた性分と恵まれた才能とは、実に慈雲尊者の宿善の果報と言うべきものでありましょう。

(余談ながら、現在の南方仏教が信仰される国ではこのような人をして「波羅蜜〈pāramī〉のある人」といった表現をします。)

正法律の立役者 ―愚黙親證師

慈雲尊者は、愚黙師がなければ「慈雲尊者」となっていなかった。

何故そのように断言出来るかの根拠を知ることは、すなわち正法律がいかに宣揚されたかの経緯を知ることに他なりません。

以下は少々長い引用となってしまいます。

しかしこれは、慈雲尊者がどのように感じておられる時に愚黙師がいかなる態度で尊者へ接せられ、ついに尊者が正法律を宣揚せられたかの経緯を、『慈雲尊者伝』ではまったく描かれていない尊者の思いを、尊者ご自身から述懐されている貴重なものですので、是非とも全て目を通して頂きたいものです。

此方が十二の時に。朱子学の儒者の講釈を聞て断見を起した。十三の年出家した。十五の年に老和尚の命を受けて密教の加行を勤めたが。十八道を授かる時。道場観に至て初めて断見の非を知った。十九の年に。四分律の五百結集の文を見て。初て菩提心を起した。二十四の時に至て。初めて此事有ることを合点した。二十五の時に初めて穏当になった。其時は信州に居たが。信州の大梅和尚とは見処が大に齟齬した。其時に日頃世間に名高き諸長老の会下の衆に逢うたり。又諸長老の法語説法等を聞いたが。皆此方の心に当たらぬことであった。其時此方が思ふには。とても世間に同道唱和の人もあるまいに依て。直に空閑独処の心が起った。信濃は寒国で堪へ難いに依て。上州か野州か美濃路あたりで山居して。木や石と共に朽て仕舞はうと思うた。彼是住処を聞きつくらふ時に。大阪の又助殿から書状で申越さるゝには。老母が大病なり。又祖母も大病で。殊の外此方が遠方に居ることを憂ひなさるゝ故。早々帰る様にとあるを見て。先ず一度帰って。祖母の心も老母の心も安んじたいと思ひ帰った。初め信州へ行た節には。老和上の機嫌もそこねたに依って。先づ此れへ懴謝しました。祖母の病気が次第に重くなって終に落命に及んだ。彼是と日を過す内に。愚黙比丘が。まだ直綴の時で有ったが。信濃ではどうして居られた。どうしたことを修行せられたと。達て問はれたに依て。飯を喰うて腹の大きくならぬと云ふことはないに依て。修行事は心掛くべきことじゃと答へた。それから殊の外懇請せられたに依て。夫ならば思惟して見よとて。初めて垂示しましたが。殊の外慇重の志が有るに依て。得捨てずに一両年も法楽寺の寮に居た。其内愚黙に少分の利益が有た。夫から直に山居しようとしたれば。愚黙の云はるゝには。かうした法が有て思惟すれば。此方共でさへ合点のなることじゃ。況して世には志な者もあり。上根上智の人もあるまい者ではない。何とぞ暫く世間に住せられまいかと云はれた。其時此方が答ふるには。こちらは不徳なことなり。世間を見るに同心の者もなし。仮令如何様に説たと云ても。人が肯ひもせまい。亦強て人を利益する心もないに依て。只没蹤跡に山居し。自分丈の法を憶念して居ようと思ふばかりじゃ。愚黙の云はるゝには。夫は畢竟菩提心がないと云ふものじゃ。人の肯ふ肯はぬを見ることでは有るまい。世間に利益の有る無いを見ることでは有るまい。自身の徳不徳を論ずることでも有るまい。唯如来の正法の世間に出現せねば止みね。出現したならば。一個半個を覓取せねば。法滅の人と云ふもので御座らう。寂門即成等皆志の有る衆なれば。先づ此人を済度せられよと達て請せられた。其時此方が云ふには。具戒のことで薪炊の侍者も無ければならぬに依て。寂門即成等は共庵でも志が相語らるゝに依て。兎角志の通りにせねばならぬことじゃと答へた。愚黙の云はるゝには。今此様に法滅の時になって。三帰すらほんのこともない。五戒八戒を受る者も少し。出家の形相すら法に違うてある。況して禅定真正法は一向に違うてある時に。夫を見捨てゝ自己を全うせらるゝは。どうした存じよりじゃと。泪を流して請ぜられた。若し是非々々山居の志ならば。まあ三年許り世話をしてくれい。其後はなるほど山居をさせませうほどにとあるゆへ。然らば三年法を説くと云ふ約束で。此所を開た。其時分は此所も。今よりも甚だ艱難なことで。事も弁ぜないんだが。此艱難を忍んで。仏在世の軌則を違へぬ様に。愚黙即成寂門など志を合せて勤められた。其後小泉西喜間多より書状を越されて。士官の身じゃに依て出にくいほどに。何とぞ来てくれいと云うて越された。愚黙のそれならば同志の人がないでもないと云て。愚黙が小泉へ行かれた。其後此方も対面した。此守一に断見の非を知らせたは即成比丘じゃ。其縁で刹厳師の事も聞て。夫に依て刹厳師を尋ねた。其縁であれこれ法縁も出来て。今日に至りました。愚黙が其中に死なるゝ。次で即成も同年に死なれた。事を仕掛けて中途になって。どうも止むことを得ず。かうして居たが。此通り永く世間に住して居るは。此方の本志ではない

 私は十二歳の時、朱子学の儒者の講釈を聞いて断見〈因縁果報・生死輪廻を認めない思想〉を起した。
 十三歳で(仏教を憎んですらいたが、父の命に従って法楽寺忍綱和上の元で)出家した。十五の時に老和尚〈忍綱貞紀和上〉の命を受けて密教の加行〈三宝院流憲深方〉を勤めたが、十八道〈如意輪観音を本尊とする三密瑜伽法。加行の最初を授かってこれを修していた時、道場観に至て初めて断見が誤りであることを知った。十九の年、(野中寺で)『四分律』の「五百結集」の文を読み、初めて菩提心を起した。二十四歳の時、初めてこの事〈例えば「来たれ見よ」と言われるように、仏所説がまさに自ら体験できる真理たること〉を納得した。
 二十五の時に初めて穏当〈禅を得て、ゆるぎない心地を得た〉になった。そのときは信州〈信濃国。ここでは佐久の曹洞宗正安寺の意〉に居たが、信州の大梅和尚〈当時の曹洞宗における碩徳〉とは(仏法に対する)見解が大いに違った。また当時、日頃世間で名高い諸長老の弟子らに逢ったり、また諸長老の法語・説法等も聞いたりしたけれども、すべて私の心には当たらぬことであった。そのとき私が思ったのは、「到底世間には同道唱和の人などないだろうから、直ちに空閑に独処してしまおう」と心に決めたことだった。けれども信濃は寒い国でその寒さは堪え難いから、上野国〈現:群馬〉か下野国〈現:栃木〉か美濃路〈現:愛知から岐阜〉あたりで山居することにし、そこで木や石と共に朽ち果ててしまおうと思っていた。
 そうしてあちこち(山居に適当な)場所を尋ね探しているうち、大阪の又助殿から書状が届き、そこに「老母が大病である。また祖母も大病で、ことさらあなたが遠方にいることを憂いているから、早々に帰る様に」とあるのを見て、一先ず一度帰って祖母の心も老母の心も安んじたいと思って(大阪に)帰った。そもそも信州へ行った時、(法楽寺住職の法弟に勝手に譲り信州正安寺に走ったため)老和上の機嫌を損ねてしまっていたので、先ず和上の所に行ってそれを懺悔し謝罪した。祖母の病気は次第に重くなり、ついに亡くなってしまった。
 そうこうして日を過ごす内、愚黙比丘がまだ直綴[じきとつ]〈褊衫[へんざん]と裙[くん]との上下を絆げて簡略化した略装の法衣。沙弥の着用する衣であるから、ここでは愚黙師がまだ沙弥であったとの意〉の頃であったけれども、「信濃ではどうしておられた。どういったことを修行せられた」と強く問うてきたので、「飯を喰うて腹の大きくならないことはない〈修行すれば必ずなんらか果報がある。逆に言えば修行して果報が無いならばそれは「飯」では無い〉ということを、修行事でも心掛けるべきだ」と答えた。
 それからも殊の外(あれこれ教えてほしいと)頼み込んでくるものだから、「それならば思惟して見よ」と言って初めて(それまで学び得てきた法を)教示したが、(愚黙には)殊の外慇重の志があったため無碍にこれを捨て置くことも出来ず、二年間も法楽寺の寮で過ごし(法を教え続け)た。そのうち愚黙は少分ながら(修行の)果報を得たのだった。
 それで(一先ず愚黙も満足したろうと思って)すぐ山居しようとしたところが、愚黙が「こうした法〈教え〉があって思惟したならば、私のような者でさえ納得できたのです。世間には志ある者もあり、上根上智の人も全く無い訳ではありますまい。何とぞもうしばらくは世間にとどまっていただけないでしょうか」と言う。
 その時私は、「私には(人に説法するような)徳など無い。それに世間を見まわしても同心の者も無い。たとえもし、私がどうにかあれこれ法を説いたとしても、世間の人は納得などしないであろう。また私自身も強いて人を利益せんとする心もない。よって、ただ私はその痕跡を絶って山居し、自分丈〈自分の器量に見合った、自分自身に関する、の意〉の法を憶念して過ごそうと思うばかりだ」と答えた。
 すると愚黙が言うには、「それは畢竟菩提心がないと云うものじゃ。人の納得する納得しないを見て判断することではなかろう。世間に利益が有るか無いかを見てから判断することでもなかろう。また自身の徳・不徳を論じることでもない。ただ、如来の正法が世間に現れていない、というのであれば止めたらよいが、現れているのならば、その一個でも半個でもなんとか探り取ろうともしないのであれば、それは法滅の人というものだ。寂門・即成など皆が志のある衆なのだから、先ずは我らを済度せられよ」と執拗に請われたのだった。
 それでも私は、「(何処かで愚黙の言う通りにするとして)具足戒を護るためには煮炊き等する侍者〈比丘は自ら調理など出来ず、また他にも戒律上僧侶として出来ないことが様々あり、厳格に律に則った生活を送るためにはそれを補助する在家の侍者が必ず必要。そのような侍者を特に「浄人」という。しかしそれには、それなりの経済力・経済基盤が必要である〉を雇わねばならないことであるし、寂門・即成などは庵を共にする仲であっても志が齟齬するくらいであるし、(愚黙の思いはわかるけれども現実はそうもいかないだろうから、)兎にも角にも(私は独り山居せんとの)志の通りにしようと思うのだ」と答えた。
 そこで愚黙が言うには、「今この様な法滅の時代となって、(人々には)三帰すら少しばかりのことです。五戒・八斎戒を受ける者もわずかばかり。出家者の姿形すら法に違っています。まして禅定・真正法は(本来から)完全に違っている時に、それを見捨てて(慈雲尊者だけ)自己を全うしようというのは、一体どうした料簡でしょうか」と涙を流して請うてきた。「もし何が何でも山居するという心づもりであるならば、まあ三年ばかり我々の世話をして欲しい。その後は確かに山居をさせましょう」と言うものだから、私も「しからば三年は法を説こう」との約束で(最終的には)ここ〈長栄寺〉を開くこととなった。
 その時分はここも、今よりずっと貧しく困難な状態で何もまともに用立てることができなかったが、その艱難を忍んで仏在世の軌則に違えぬ様に、愚黙・即成・寂門などと志を合せて励んでいた〈具足戒の授戒には最低五人の比丘が必要で、その要員は法楽寺および野中寺から招聘が可能。しかし僧坊が僧坊たり得るには、最低でも四人のそこに常住する比丘が必要。一人から三人以下であればただの庵。当初は長栄寺での比丘はただ独り慈雲尊者のみであったが、彼ら法弟は次々比丘となり、果たして僧坊となりえた〉
 その後、小泉〈大和郡山の小泉か?〉の西喜間多〈人名。未詳〉より書状が届き、「役所づとめの身で(高井田村までは)出向けないから、どうかこちらに来て(尊者一門の説法を聞かせて)欲しい」と言ってきた。愚黙は「それならば同志の人が無いでも無い」と言って、まず愚黙が小泉へ出かけて行った。その後日、私も出向いて彼と対面した。この守一に断見の誤りを諭したのは即成比丘である。その縁から刹厳師〈尊者の正法律再興運動に同調・助力した曹洞宗の禅師〉の事を聞き、それに依って刹厳師のもとを尋ねた。その縁からあれこれ法縁も出来、今日に至った。
 しかし愚黙にそんな中で死なれ、次いで即成も同年に死なれてしまった。事〈正法律。仏教復興運動〉を仕掛けて中途になって、私はどうも止むことを得ないままこうして過ごしてきたけれども、このような形で永く世間に住しているのは、私の本志ではないのだ。

「慈雲尊者法話集」(『慈雲尊者全集』vol.17, P749
[現代語訳:沙門覺應]

これは、およそ慈雲尊者が語られる時ほとんど必ず引用される話の典拠であり、尊者が明和三年1766七月晦日の布薩の後で行われた僧俗への説法が筆記されたものです。

実は尊者はこの説法の冒頭、「今後は法を説くまい」と述べられ、護命師に後を託すことを宣言されています。この時、尊者に説法を迫り、さらに正法律を掲げさせるに至った愚黙師が亡くなって、すでに十五年もの月日が流れていました。

ここで尊者は世間に身をおくことは「本志ではない」と言われていますが、それは全く率直なるご自身のお気持ちであったのでしょう。けれども、そのような事を思われながら、愚黙師から説法を請われ、法を説き初めてからはすでに二十三年が経っていました。そしてこの後も結局、尊者が文化元年1804に八十七歳でその生涯を終えられるまで、法を説き続けられました。

さて、ここでは愚黙師の尊者に説法を迫る態度が甚だ熱く激しいものであったことが、尊者ご自身の口で語られています。

世間に法を説くこと、世間を利益することにどこまでも消極的であった慈雲尊者に、「それは畢竟、菩提心がないと云ふものじゃ」であるとか「法滅の人と云ふもので御座らう」と噛みつき、さらに「かうした法が有て思惟すれば。此方共でさへ合点のなることじゃ。況して世には志な者もあり。上根上智の人もあるまい者ではない。何とぞ暫く世間に住せられまいか」と言い、さらには「寂門即成等皆志の有る衆なれば。先づ此人を済度せられよ」などと涙を流しつつ懇請された若き愚黙師。

慈雲尊者は子供の時から芯の太く豪胆な方であったことがその諸伝記より知られますが、その尊者に負けず劣らず愚黙師もまた芯の通ったすこぶる大胆な人であったのでしょう。若く、それであるがゆえに尚更、純粋一途なる気質の人であったのでしょう。

現実にはここで語り伝えられていることよりずっと長く、そしてしつこく愚黙師は尊者に迫られたのでしょうし、慈雲尊者はそんな愚黙師に閉口せられたこともあったろうことは想像に難くありません。

けれども、そんな慈雲尊者に対する「それは畢竟、菩提心が無いというものじゃ」などという実に直截なる愚黙師の言葉は、まさに尊者の痛いところを突くものであったに違いない。

結局、法弟愚黙師に対して尊者は「では三年だけならば」との条件付きで応じられ、その後はやはり隠棲するつもりでおられたのが、師忍綱貞紀和上の命によって高井田長栄寺に入られてまさしく愚黙師らの願いどおりの生活を開始せられ、約束の三年はまたたくまに過ぎています。

そこでさらに愚黙師より「今こそ正法を護るため、これを中興するために」などと催促され、最初はやはり消極的であった尊者もついに決意され、著されたのがこの『根本僧制』です。

画像:悲しみとは小さき怒り

それは冒頭述べたように、決して愚黙親証師無くしてはこの世に生み出され得なかったものでした。

そんな愚黙師が、そしてさらには即成師が、共に正法律を興していかんとしていた若き法弟二人があまりに若くして立て続けにこの世を去られた時の尊者のお気持ちはいかばかりであったか、それを推し量ることなど、到底この愚生には出来ません。

しかし、正法律再興を掲げられ、悲しみが怒りの一種であり、智者が死を嘆き悲しむことは無いことは十分承知されていたに違いない尊者は、正法律を掲げた同志の喪失は失意をもたらすものではあったでしょうけれども、涕涙悲泣することはなかったことでありましょう。

それは、釈尊が舎利弗尊者と目連尊者という若き二大弟子に先立たれたのに比せられるものであったでしょうか。

正法律とは何か ―世尊の宗名・聖教の名目

正法律とは何でしょうか。

世間では、「慈雲は正法律を説いた」という程度のことは比較的知られているものの、ではしかし「正法律とは何か」については、それほど知られてはいないようです。

例えば『岩波仏教辞典』では、正法律について以下のように解説しています。

正法律 しょうぼうりつ
如来の正法に準拠する律の意.江戸時代後期,慈雲飲光によって提唱された戒律運動.直ちに如来の所説に基づくことを目指す.慈雲は河内の高貴寺(大阪府南河内郡河南町)に活躍した僧で,悉曇学でも著名.不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪欲・不瞋恚・不邪見の〈十善戒〉を重視し,身口意の三業において〈十善〉を実践することを主張した.十善戒は大小の諸戒を統摂するものであり,かつ人間の務め行うべき根元であると位置づけ,『十善法語』『人となる道』などを著したが,それらの著作の中には神儒仏の三教一致思想が認められる.〈神下山高貴寺規定〉には「正法律とは聖教の名目にして,外道邪宗に対して仏法の尊向を表せる名なり」とある.法系的には南山四分律に属するが、重要視したものは有部律であり、ほぼ一切の経律を重視する立場を取る。

『岩波仏教辞典』岩波書店

ここでは正法律についてまず、「如来の正法に準拠する律の意」などという、率直に言って見当違いの解釈が記され、十善については妥当といえるものの、むしろ本筋以外の情報が詰め込まれて具体性を欠いたものとなっています。

かろうじて尊者の『高貴寺規定』の一節が最後に引用されてはいるものの冒頭に頓珍漢な解釈をしているので、おそらくこの項担当の編者は、理解せずにこれをとりあえず示したのみのことであったのでしょう。

結局これでは何のことだかよくわかりません。これでは話にならない。

ではまた他に、『密教大辞典』を参照してみましょう。そこには以下のように記されています。

ショウボウリツ 正法律
慈雲尊者飲光が唱道せし律にして、釈尊所説の正しき律法の意なり。

『密教大辞典』法蔵館

この『密教大辞典』にいたってはあまりに簡潔で甚だしく語弊を招き得る、しかも若干的外れなものとなっています。

そして、正しき法と律ではなく、正しき律法?…これはなんでしょうか。

『密教大辞典』の編者は戦前・戦後の名だたる碩学らによって編まれたものであって、このようなことを言うのは甚だ僭越なることではありましょう。が、おそらくこの項担当の編者はほとんど理解せぬまま、あるいは大して推敲することなくなおざりに記したとしか思えぬものです。

では『仏教語大辞典』ではどうか。

【正法律】しょうぼうりつ
①正しい法と律。(P) satthu-sāsana(釈尊の説かれた教え。)〈『雑阿含経』一〇巻 T2. P67a: AN. III, p.297: Vinaya I, 19
②延享、寛政のころ、慈雲尊者によって唱道された真言律のこと。

中村一『仏教語大辞典』東京書籍

ここではまず①として正法律の原意が示されているものの、しかし②にて慈雲尊者に触れているものの、まるでその意味内容に言及されていません。やはり同じく簡潔に過ぎ、これでは結局何のことであるかわからない。

慈雲尊者について一般的な辞書に頼っても、畢竟何も具体的なことはわかりはしません(そもそも辞書などその程度のものであるのでしょうけれども)。

さてしかし、時にその原典に直接当たっても、用いられている文体や術後などその表現があまりに冗長もしくは難解で到底理解不能という場合があります。あるいは逆に、あまりに簡潔に過ぎて、その内容が全く理解できない、ということもあるでしょう。

が、これは「尊者に誤りなど無い、あるわけがない」などという意味では決してありませんが、尊者の書にはそのような表現、衒学的で過度に思弁的な内容や簡略に過ぎて意味不明な内容などほとんど認められません。

結局、正法律とは何かを知るにはやはり、直接尊者自身の言・著作に当たるに如くものはなし。

そこでさて、尊者は「正法律とは何か」について、以下のように端的に、そしてその典拠を併せて記されています。

一此正法律外。別有相似正法及僧坊。其中龍蛇混雑眞偽難辯。非經簡擇則不得共法及席
正法律と云フは世尊の宗名なり。外道の不正義邪説に対して、自ら我が正法律と称し玉ふなり。大般若経。処々正法毘奈耶と云ふ。有部諸律に多く正法律と云ふ。其ノ中一例を挙レば、阿黎沙ノ偈に、此の正法律出家云云ト是也。相似ノ正法とは、末世の弊儀人師の所立なり。瑜伽論には像似の正法と云フ。

《本文》
一.この正法律の外に、別に相似の正法および(相似の)僧坊がある。それは龍と蛇とが混雑しているようなもので、その真偽を弁別するのは困難である。(正と邪とが)選別されていないのであれば、そのような者らおよび場所では仏法および席を共にすることは出来ない。

《自注》
 「正法律」とは世尊〈釈迦牟尼仏〉の宗名である。外道の不正義・邪説に対して、自ら「我が正法律」と称されたのである。
 『大般若経』においては処々に「正法毘奈耶」〈毘奈耶はvinayaの音写語、すなわち律のこと〉と説かれている。『有部律』やその他の律蔵には多く「正法律」と説かれている。その中の一例を挙げたならば、阿黎沙の偈〈阿黎沙はārṣaの音写語、賢者の意。ここにいう「阿黎沙の偈」が何か判然としないが、あるいは『雑阿含経』所説の釈迦牟尼の偈を意図しているか〉において、「この正法律出家」云云とあるのがそれである。
 相似の正法とは、末世の弊儀、後代の人師が捏ち上げたものをいう。『瑜伽師地論』においては「像似の正法」と称されるものである。

慈雲尊者『枝末規縄』(『慈雲尊者全集』vol6. P77
[現代語訳:沙門覺應]

ここで慈雲尊者は、「『正法律』とは世尊の宗名である」と定義されており、それはいわば「仏教=正法律」であることを示したものです。

そして何より、正法律という言葉自体も、あくまで諸仏典に基づいたものであることを示されています。

これはあくまで私的な表現で蛇足かもしれませんが、ここに慈雲尊者が宣揚された「正法律」とは、諸仏典に正法律とあるからこそ「正法律」たりえるものといえるでしょう。

すなわち、それは決して尊者が創始したものでも初めて尊者が提唱されたものでもない。遠く釈尊の昔、その初めに説かれ、仏弟子によって経律論の三蔵としてまとめられ、伝えられたものが正法律であった。そしてそれをこそ日本で再び宣揚するのだ、と慈雲尊者とその一門らは理解され、志されていた、と解するのが正確でありましょう。

これについてはまた後述します。

ところで現代、世間には「ゴータマ(仏陀)は『仏教』を説かなかった」などという学者腹があります。

確かに、釈迦牟尼世尊が「我が教えは『仏教』である」だとか、「私は『仏教』を説く」などと説かれたことなど認められず、それは後代の人が仏陀の教えであったからそれを便宜的に「仏教」だとか「仏法」であると呼称し、我々もそれをそのまま使用しているものです。それは例えばキリスト教においても同様の事態でありましょう。

(もっとも、分別説部が伝持してきたパーリ語仏典においては、それもKhuddaka Nikāya「小部」に限ってのことですが、仏陀ご自身が自ら語るその内容をしてbuddhavacanaであると言われています。vacanaとは話・言葉・表現の意です。現在南方においてパーリ語でいわゆる仏教というときにはBuddhavāda、あるいはBuddhavacanaという語を用いるのが一般的です。)

そして、そのような「仏教」という言葉。それがさらに世間で用いられるときには、またさらに違った様相をみせます。

それは時に、いや往々にして、インドの釈迦牟尼仏の教えを淵源とするものではあろうけれども、しかし、もはや原型をまるで留めていないもの、仏教聖典に全くの根拠もない、もしくは合理的整合性の認められない思想や習慣をすらまとめて言うのに使われている言葉ともなっているでしょう。

文化、などというすこぶる便利な言葉で、乱暴に一括りにされてしまっている場合がある。

しかし、むしろそのような意味での仏教を説く輩こそが、しかもそれが僧形で僧侶を自称する人であったにもかかわらず、江戸期の日本には多かったようです。いや、それは現在もまったく同様、むしろさらにひどい有り様となっているとも言えるでしょうけれども。

思えば安土桃山から江戸初期の日本において、中世以来殺人・略奪、他領地の略取など暴虐の限りを尽くし、数多の大名・豪族らと紛争関係にあった多くの大寺院は、まず豊臣秀吉の刀狩りによって武装解除され、そして所有していた地方の豪族など思いも及ばぬほど広大な荘園・領地ほとんどが没収されていました。

これについての秀吉の政策はまことに効果的で、うまいやり方であったと言う他ありません。信長の側で、秀吉は寺院勢力のおそるべきことを嫌というほど経験していた、ということがあるのでしょう。

そしてさらに、豊臣家が滅びて徳川家康の代となると、家康は秀吉の政策を継承し、それまで「仏教どこ吹く風」といった態度で傍若無人に振る舞ってきた諸大寺院にとっては非常に厳しい内容の寺院諸法度が次々発布され、経済的にも組織のあり方についても締め付けられて、諸寺院の勢力は急速に衰退していきました。

(面白いことに、そんな寺院諸法度で第一に出されたのが『高野山法度』。そして寺院諸法度の制定に深く関わっていたのは臨済僧、黒衣の宰相ともいわれた以心崇伝。)

中世以来の強大な経済基盤のほとんどを失った諸寺院は、しかし替わりに徳川幕府によって寺請制度(檀家制度)なる、いわば為政者の地方管理組織の中に組み込まれる形で存在が許され、それによる一定の収入が安堵されるようになっていました。

結果、それまでのように多くの僧侶らはおおっぴらに殺人や略奪、女犯等を行えぬようにはなったものの、その実生活は相変わらず仏教者として誠に頽廃したもので、その多くが奉じる思想、唱えられる教えもまた「世間でいわれるような意味での仏教」でした。

もちろん、ようやく乱世もしずまって天下泰平を迎えた江戸最初期には、慈雲尊者はまさしくその流れにある人でありましたが、槇尾山の明忍律師によって戒律復興がなされ、そのような頽廃した仏教を復興せんとの動きが確かにありました。

が、それは様々な影響を随所に与えるものではありましたが、その動き自体が大きく体制を巻き込むまでのものとはなりませんでした。

そして、慈雲尊者が活動された江戸中期ともなると、そのような運動の流れの中にても何故か「戒律が派閥化・宗派化」する事態が生じ、そこでは内部での身びいき・隠蔽体質が生じるなどして、「何のための戒律か」という当初の志も全く忘れて堕落の影を落とす者の出現が多くあったようです。

そのような当時の状況はまさに、この言葉は慈雲尊者もその著『十善法語』で引用されているのですが、鎌倉初期の明恵上人が残された以下のような言葉で形容されるものと再びなっていました。

若し近代の学生の云ふ様なるが実の仏法ならば、諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん。

もし近代の学生〈学僧・仏教者〉らの言うようなのが本当の仏教なのだとしたら、諸々の道〈諸宗教〉の中で悪しきものは、他ならぬ仏教であるのに違いない。

高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』
[現代語訳:沙門覺應]

そのような、明恵上人が言われるところの「近代の学生の云ふ様なる仏教」、あるいは先程から私も「世間でいわれるような意味での仏教」と表現してきましたが、それを慈雲尊者は「像似の正法」であると指摘されます。

そもそもその「像似の正法」という言葉自体も、慈雲尊者が上掲の『枝末規縄』で「相似ノ正法とは、末世の弊儀人師の所立なり。瑜伽論には像似の正法と云フ」と述べられているように、やはり仏典に基づいたものであり、それはまさに正法律に対置するものです。

では、そのような「近代の学生の云ふ様なる仏教」・「世間でいわれるような意味での仏教」すなわち「像似の正法」に対し、「正法律」という言葉はどうか。

それはまさに、先に述べたことの繰り返しとなりますが、釈迦牟尼仏ご自身が意識的にその自らの教えと定めとをして「正法律である」と宣言されている言葉であり、それは多くの経律において認められるものです。その典籍の大小乗を問わずして。

正法律とは、決して慈雲尊者が独創した言葉ではなく、そしてただ単に仏典にあるというだけで尊者が我田引水・牽強付会して用いた言葉でもなく、あくまで仏典に記されたままの意味のものとして用いられた言葉であり、それを「復興」せんとする尊者の、いや元を質せば弟弟子たる愚黙親證の、釈尊が昔に立ち戻ってその法〈教え〉と律〈定め〉とに従わんとする、尊者らの大原則・指針を示した言葉でもあるのです。

先に、正法律の立役者として愚黙師を紹介する中に示した「法楽寺過去帳」に、「尊者の正法律再興は偏えに(愚黙)禅師の力に依るものなり」とあるのは、慈雲尊者一門の正法律に対する見方をまさしく示したものです。

またさらに慈雲尊者は、正法律をして以下のようにも説明されています。

一正法律之護持不有怠慢。比丘沙彌之受戒。并密教灌頂等。一切可爲如法事
正法律とは、聖教の名目にて、外道邪宗に對して佛法の尊尚を表せる名なり。若シ但に正法と云ハば、像似ノ法に對せる名にも用ゆ。瑜伽菩薩戒本に於像似法、或自信解。或隨他轉。是名第四他勝處法と。これなり。今正シく私意を雑へず、末世の弊儀によらず、人師の料簡をからず、直に金口所説を信受し、如説修行するを、正法律の護持と云フなり。

《本文》
一.正法律の護持に怠慢してはならい。比丘・沙彌の受戒、ならびに密教の灌頂など一切の行事は如法でなくてはらない。
《自注》
 正法律とは、聖教〈経・律・論の三蔵〉の名目〈名前〉であって、外道邪宗に対して仏法の尊尚であることを示したものである。もし単に「正法」といった場合には、(正法・像法・末法というように)「像似法」に対する呼称にも用いる。それはたとえば、(弥勒菩薩による瑜伽行の)『菩薩戒本』にある「於像似法。或自信解。或隨他轉。是名第四他勝處法」T24. P1110b、このことである。
 今、正しく私意を雑えず、末世の弊儀に依らず、人師の料簡をとらず、直接に(三蔵に伝えられた仏陀の)金口所説を信受し、如説修行することを「正法律の護持」という。

慈雲尊者『一派真言律宗総本山神下山高貴寺規定』
(『慈雲尊者全集』vol.6. P63
[現代語訳:沙門覺應]

「正法律とは聖教の名目」、すなわち(正しく仏教として経・律・論の三蔵に伝えられてきた)仏教そのものである、と宣言されています。この言葉によってはより明瞭に、尊者の宣揚された正法律が決して戒律に限って言われたものではないことが理解されるでしょう。

特に、ここでも対置されている「像似の正法」という言葉とその示す意味内容をも強く意識し、理解しなければなりません。

すでに上に述べてきたことの繰り返しとなりますが、正法律とは、現代の諸辞典が云うような「如来の正法に準拠する律の意」ではなく、ましてや「慈雲尊者飲光が唱道せし律にして、釈尊所説の正しき律法の意」といったものでもありません。

尊者は「律」にのみ比重を置いたのでは、決してなかった。

いや、戒律の復興は、正法の復興を志したときに、必然的に行われるべきものであるから戒律復興は勿論行われるべきものであったでしょう。けれども、それ自体が目的なのではない。そもそも、仏教において、その法と律とどちらが重いか軽いかなどというものではありません。

ただし、大乗小乗の別など問わず仏教の修行は戒・定・慧といい、これを三学というのですが、戒を修めることによって禅定が達成され、禅定によって智慧を得ることが出来るとする大原則があります。その故に、仏教(正法)を復興せんとするには、まず順序としてどうしても戒律を正しく実践する必要が出てきます。

事実、たとえば明堂師による慈雲尊者『戒学要語』の序文では、まさしくそのように述べられています。

戒定慧三學。猶鼎之三足不可偏廢也。然有戒而後有定慧。論其次序則戒居其首矣。

戒・定・慧の三学とは、鼎の三足がそのいずれか一本でも取り去ることなど出来ないようなものである。もっとも、先ず戒があって後に定・慧がある。その順序を言うのであれば、戒がまずその初めとなるのである。

明堂諦儒律師 慈雲尊者『戒学要語』序(『慈雲尊者全集』vol.6. P36

このような理があって、尊者一門もまたなにより先ず戒律を正しく仏所説に基づき実践されたことがあり、一般に正法律とは「慈雲尊者らによる戒律復興運動」の憲章ともされるのでしょう。

けれども、クドいようですけれども、尊者は決してただ単に戒律復興を志して正法律を宣揚されたのでは無く、また正法律とは尊者が独創されたものでもありません。

正法律とは「正しい法〈教え〉と律〈定め〉」であり、尊者が云われているように「正法律と云フは世尊の宗名」・「正法律とは聖教の名目」であって、仏陀がまさしく説かれた内容すべてを意味するものです。

それは、「末世の弊儀人師の所立」を雑えぬものであり、また「正シく私意を雑へず、末世の弊儀によらず、人師の料簡をからず、直に金口所説を信受」すべきもの、まさしく本来的な仏教のことです。

さらなる詳細はこの『根本僧制』本文の最後に記されているため、ここには記しません。

そのような正法律を如何様に、この日本の江戸期において現実に行うべきかの大原則が記された最初のものが『根本僧制』です。

『根本僧制』は、慈雲尊者のその後の人生における活動がいかなる精神に貫かれてなされたのかを知るには必ず読まれるべき書であり、また現代の日本においても戒律復興、いや、正法律を唱道せんとする人が現れた時には有益などという言葉では表現できぬほど価値ある書となるものでしょう。

小苾蒭覺應 謹記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『根本僧制』は、『慈雲尊者全集』第六(70-75項)の『根本僧制并高貴寺規定』を底本とした。

なお、現在伝わっている『根本僧制』は、『慈雲尊者全集』に『根本僧制并高貴寺規定』として収められている一本の他に、『雙龍派中制規集』として収められているものが二本があって、計三本ある。

『雙龍派中制規集』に収められている『根本僧制』ニ本は、一つは『慈雲尊者全集』の編者長谷宝秀師が伝来の古写本二通を校合したものであるといい、また一本は西賀茂神光院が所蔵する慈雲尊者ご親蹟の『雑記』に記されていたものである。

『雙龍派中制規集』の前者には尊者の自注が無く、ただ五ヶ条の本文のみが記されたもので、しかし「寛延二年己巳七月中旬衆僧所成立。若僧若別。若具若未具。倶於正法律中剃染取籌者不得違犯。若故違犯則獲突吉羅罪。治罰有法」という、日付および但し書きが五ヶ条の直後に記されている一文があり、それは『根本僧制并高貴寺規定』所収のものには見られない。

後者は尊者のご親蹟であるが、『根本僧制并高貴寺規定』と比すると、全て漢文にてただ第三条と第四条にのみ尊者は自注を付されており、内容的には『根本僧制并高貴寺規定』所収本と矛盾したものではないが、異なった文言によって注釈がなされている。

よってここでは、あくまで『根本僧制并高貴寺規定』所収本を本としながらも、西賀茂神光院所蔵本にて異なった自注が作されている箇所ではこれを併記し、その場合は《西賀茂神光院所蔵本》とまず表記し、以下が異本にある自注であることを示しておく。

ところで、尊者はご自身の著作や弟子が筆記したものを数度にわたって添削されることを常とされていたようであるが、実際ここで紹介する『根本僧制并高貴寺規定』と『雙龍派中制規集』とにおいて収められている五ヶ条の本文も、微々たるものであるが相違している。が、それは一応ここに記しておくのみに留め、本文ではその異なる点はあえて注しかなった。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、訓読文は、適宜現行の漢字に変更した。

『根本僧制』は五ヶ条の条文と、これは漢文で記されているが、それを慈雲尊者が自ら仮名文で註するという形式が採られている。そこでここでは本文において、以下のように漢文の条文を青線囲みで示し、つづいてその訓読文を破線囲みで示している。

条文(漢文)

訓読文

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。

しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應 謹記
(horakuji@gmail.com)

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