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‡ 慈雲 『数息観大要』

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1.解題

『数息観大要』とは

『数息観大要』は、慈雲尊者の齢八十三のおり、西京は阿弥陀寺において衆人のために安那般那念を説かれた際、その要を是非とも文章にとの弟子からの要請によって、慈雲尊者自ら著されたという小篇です。

(慈雲尊者についてはの詳細は“慈雲尊者とは”を参照のこと。安般念については“安般念(持息念・数息観・アーナーパーナサティ)”を参照のこと。)

この小著にて尊者は、安那般那念いわゆる数息観の用心を、ごくごく簡潔に記されています。

そして、むしろそれがごく簡潔なものであるために、この書の尊者の数息観についての説示には、数息観としてはまったく誤りと読みうる点があります。あるいはことによると、正法律を唱えた尊者にそのようなことがあるとは少々考えにくいことですが、それは尊者の独自説であったのかもしれません。しかし、尊者が特定の仏典に依拠されてこれを説かれたとして、現在のところその典籍が何であったか不明のため、詳細を云々することが出来ずにいます。

(今は諸典籍に触れ得る状態ではないので、誠に杜撰なる挙ではありますが、ひとまずここにかく言うにとどめています。)

ところで、本項では『数息観大要』を便宜上三分して紹介しています。しかし、その第三項の内容は、前二項の内容をさらに要略したような、まったく重複したことを説いたものとなっています。

『慈雲尊者全集』の編者、長谷宝秀師がこの書を全集に編じられたときに用いられたのは慈雲尊者の直筆のものではなく、当時の鶏足寺住職小林正盛師所蔵の古写本『雙龍遺稿』と活版本『法語集』を校合されたと、この書の末に記されています。そこでは、活版本『法語集』はこれを「不浄観及数息観垂示」と題して一つの書として載せてあったけれども、『雙龍遺稿』にのみ記されていたそれぞれの垂示の時がそれぞれ異なっているため、不浄観と数息観についての垂示を一つの書とすることを「大なる誤」とし、別々のものとして編纂されたことが記されています。

あるいは実は、『慈雲尊者全集』に編纂されたこの書自体、もともとごく短い内容のものですが、これも大小二部のものを合して一つとされたものかもしれません。

安般念のすすめ

安般念だけが優れた道であって、その他これに勝る術など無い、などということはありません。しかし、安般念は、おそらくは誰人でも志あればその日からでも取り掛かれる、それは行うのが易しいという意味では決して無いのですが、人をして涅槃へと導き得るきわめて優れた修行の一つです。

これを正しく行うには、まず仏陀の教えに直に触れ、そしてインドから支那、日本と伝えられてきた優れた仏弟子らの著作の指南を助けとする必要があります。実際、多くの典籍が我々の元へと伝えられ、比較的容易にそれらに触れることが可能となっています。故にいきなり「ただ坐る」などというのではなく、いかにこの道を行くべきかをまずそれら典籍に依って知らなければなりません。

あるいは、今世間で出版されている仏教の瞑想についての書など、原典になどほとんど触れず、一般には難解に思えるような事柄に関せずに、噛み砕くようにしてあれこれ書いてある書などを読んで行うのもよいでしょう。しかし、その手の書には不確実な事柄や、著者の誤解や恣意的な曲解に基づく記述がある場合があります。故にやはりある程度、その全てを読む必要などあるとは全く思いませんが、原書に触れておくのが確実と考えます。

そして、これを知って後、自分が実際に安般念を修する過程で、もし不明な点や自ら迷う点が生じたならば、またその典籍に触れてこれを確かめてみるか、あるいは未だ読んだことのない書に触れ、その要を探れば良いでしょう。まずは『雑阿含経』あるいはSaṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta”(相応部安般相応)を読み、そして例えば『達磨多羅禅経』などに親しむことを愚衲は勧めます。

いや実際のところ、それが原書であったとしても、漢語で伝わった阿含経やパーリ語のニカーヤの所説だけを読んでも、不肖凡愚の我が身には不明瞭な点が依然として残ります。多聞博学であることを推奨するのでは決してありませんが、一つだけではなく、若干の優れた書に教えを訪ねておくことは、屹度自身に利益をもたらすものとなるでしょう。

慈雲尊者によるこの書は、我が身の不徳を省みずして不遜な言を振るったならば、これだけでどうにか出来るようなものでは到底ありません。しかしながら、あるいは初心の者には安般念を知り行う一つのきっかけとして、あるいは已行の人には行学を深める増上縁となり得るものであるでしょう。

願わくば、少しでも多くの人が、仏陀が遺されたかけがえのない宝に触れてその恩恵に浴し、また他者にその功徳を分かちあわんことを。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『数息観大要』は、 『慈雲尊者全集』所収のものを底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、訓読文は、適宜現行の漢字に変更した。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

非人沙門覺應 敬識
(horakuji@gmail.com)

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