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‡ Kesamuttisutta (Kālāma sutta)  ―カーラーマへの教え

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1.解題

カーラーマへの教え

この項で紹介しているKesamuttisutta[ケーサムッティ・スッタ]という経は、Aṅguttara Nikāya, Tikanipāta(増支部三集篇)に収録されているものです。

一般には、この経の内容がKālāma[カーラーマ]という氏族の者たちへの教えであることからKālāma sutta[カーラーマ・スッタ]、あるいはこれは英語綴りに基づくもので適切とは言えないのですが、特に欧米ではKalama sutta[カラマ・スッタ]などと呼称され、今や世界中の仏教徒の間で広く愛読されています。

何故か日本ではそれほど知られていない経典のように思われ、実際書籍の上でもほとんど見かけられず、またネット上でこのような形で紹介するのは当サイトが初めてとなるようです。

しかし、海外では仏教の根本的態度を簡潔に説きあかす至宝の経典として、その信奉する所の教えの大乗小乗の別なく、人口に膾炙されています。この教えは仏教徒の憲章であると。実際、この経典の一説は多くの書物の中で、仏教思想の勝れた所以の一つとして事あるごとに引用されています。

大乗ではまた他に、これは往古の日本には伝わらなかったものですが、インドからチベットに仏教をもたらした尊者Śāntaraksita[シャーンタラクシタ](寂護)による、Tattvasamgraha[タットヴァサングラハ](『真実綱要』)という大変に優れた綱要書があり、そこで同義の事柄が仏教者の採るべき態度として説かれています。

さて本経の主題、それは要約すれば以下の様なものです。

この世には数多くの「教え」を説く者があり、それぞれが我が教えこそ真理である、我が奉じる説こそ真実であると主張して譲らず、また他の説を虚妄であるとして批難する者がある。けれども、それを聞く者としては、その多様性とそれぞれ矛盾する思想内容によって判断に窮し、むしろそれらすべてへの疑惑と不審とを増すばかりである。そこで、それらが果たして真理であるのかどうか、そのいずれが真実であるかをどのように判断するべきか、ということです。

いかに法を弁別するべきか

その教え・思想・教義が真実であるかどうか。

そをいかに判断するべきかを説かれるにあたって、仏陀は「我が説こそ正しいものであるから、我れに従え」、「私の説こそ優れており、他は誤り劣っている」などということを口にされず、ただ以下のような十の憲章を示されています。

Kālāma suttaに説かれる法を弁別する為の十の憲章
No. Pāli原文 日本語訳
1 mā anussavena 風説に依らない
2 mā paramparāya 伝承に依らない
3 mā itikirāya 伝聞に依らない
4 mā piṭakasampadānena 聖典集の所伝に依らない
5 mā takkahetu 推論に依らない
6 mā nayahetu 公理(定式化された理解)に依らない
7 mā ākāraparivitakkena 類比に依らない
8 mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā 深慮され達された結論への同意に依らない
9 mā bhabbarūpatāya 有能そうな者の言葉に依らない
10 mā samaṇo no garūti その沙門が(我等の)師であるという理由に依らない

このように、仏陀釈尊は、何事か真実に関わることを判断するのに、これら十の項目を挙げ、それらによってただちに判断を下すべきではなく、まず自らが確かめるべきことを勧められています。

一応、念のために確認しておきますが、仏陀は列挙されたこれら十の事柄に依ることを完全に退けよ、何も信じるななどと説かれているのではありません。これらは「ただそのような理由であるからといって従うなかれ(盲従するなかれ)」、「ただそれだけで信じるなかれ(盲信するなかれ)」というが如き意味で説かれているのです。

ところで、仏陀釈尊とほぼ同時代の賢人、支那の孔子(前551-479)は、この仏陀の教説に一つ通じるこのような言を残しています。

学びて思わざれば則ち罔し

『論語』為政

これはいわばごく当たり前のことであるのですが、その当たり前が出来ない、出来なくなるのが人の性というものでしょうか。

また、釈尊より時代をやや下る時の同じく支那において、性善説を説いたことでも知られている孟子(前372頃-289頃)が出、この教説に通ずる言葉を残しています。

悉書信則不如無書

悉く書を信じれば則ち書無きに如かず

『孟子』尽心下

また、ギリシャの哲人らのうちストア学派やエピクロス派などを淵源とする、近代から現代に至るまで繁栄をみせている経験主義、実証主義、実用主義など啓蒙思想でも、これに共通する態度が採られています。

そのような態度を、今からおよそ二千五百年前のソクラテスなどが活躍したのと同時代に仏陀が説かれているということもあり、西洋人そして西洋思想の影響を多分に受けた人々から、などと云うと教育を受けた現代日本人はおおよそすべて当てはまることになりますが、「仏教とは宗教と言うよりもむしろ哲学ではないのか」という見方がなされることがしばしばあります。

ただ理知の剣を持つだけではなく、慈悲の盾を

このカーラーマスッタに説かれるような教説に触れて、「嗚呼、なんと素晴らしい教えでしょうか。眼からウロコが落ちるような思いです。」などと賞賛、いや絶賛。

そうかと思いきや、どうしたものかその直後には、「しかし、それでは一体、私はどうしたら良いというのでしょうか?」などという問いを発する、「あなたは一体、今、何を聞いて眼からウロコが落ちたと言うのでしょうか?」と逆に問いたくなるようなことを言い出す人が非常に多くあります。

ああ、いや、一概にそうと言えないかもしれない。

なぜなら上に挙げられた事項のうち、なんらか複数のものに依るのはむしろ日本だけではなく他国でも一般的な態度であり、むしろ常識、当然とすらされている態度である場合があるためです。それらをここで「依るべきでない」とされ、戸惑うことは、ある意味当然の反応であるかもしれません。

けれどもやはり、「あなたは一体、今、何を聞いて、眼の何処からウロコが落ちたと言うのか?」と問わざるを得ない。

さて、仏陀がこのカーラーマスッタにおいて説かれている、上に表で示したような態度を現代的に言えば、以下のようなものとなるでしょう。

いかなる権威主義的態度も却け、何事かの教義や何者か宗教指導者への盲従・狂信を砕き、伝承される教えを愚かなまでにただ厳密に実行するを良しとする教条主義に陥るのを防ぐこと。また、もっぱら思弁に依るような思弁哲学的態度も廃して、自らの思考と経験によって検証し確かめること。

これらのような態度をもって、得たところの情報の是非、その利害を、他の誰でも無く自ら判断することを勧めるものです。

今これを最近の卑近な所に当てはめて言うならば、テレビや新聞、雑誌などマスメディアの言うこと、政府の言うこと為すことに対して、それを鵜呑みにしないこと、とも言えます。

余談となりますが、実際、これは何も今に始まったことではありませんが、最近は特に信用ならない、しかも重大な問題に関することが続いています。故に彼らの言動については眉にたっぷりと唾をつけて対し、時には強い拒絶の態度を示すことが必要でしょう。

あるいはまた、これも世間によく見られる態度ですが、世間で常識などと言われている事柄を金科玉条とし、あるいは判断基準として、無闇矢鱈にそれを振り回さないことです。通説、人づてに聞いた話、うわさ話などを鵜呑みにして、自分の脳内ですべて事実としてしまい、その妄想に対して感情をあれこれ働かせないことです。

そのように、本経に説かれている態度、それは別段仏教やその他宗教についてだけ説かれていることではなく、およそありとあらゆる「情報」(思想・教育・報道・宣伝・報告・世間話 etc.)についても適用され得る、いや、適用すべきものです。

しかし、それは一見単純な、ごく簡単であることのように思えるものではありますが、しかしこれを行うとなると非常に厳しい、困難な態度です。この教えを厳密に実行することは、賞賛することこそ簡単ですが、実行するとなると見かけほど容易なことではありません。

我々の日々暮らしのその相当の部分は、自ら確かめようとしたことなどなく、また確かめんとしたとしてもその術をすら知らないし、思いもつかないような事柄によって占められています。

科学技術から生み出された生活用品など、その理論や機構などを厳密に検証しなくとも、スイッチを押して期待される機能が働ければそれでことが足りるから充分であり、これらは一応、例外であると言えるでしょう。あくまで「一応」ですが。

実際、それらが生み出された、その基本的な物理や化学、さらにはその技術が生み出された背景、哲学・思想を知るところから始めるとなると、小・中学校から駆け足でやり直して大学院まで行ってもまるで追いつかないということになるでしょう。

それは部分的に行うのはきっと非常に面白く、かなり為になるに違いないことではあります。が、全部となるとまったく現実的ではありません。

我々はそれをするのに充分長く生きることが出来ないし、それらをごく短期間のうちに全て叩き込めるような脳を持っていない。そして、科学技術の世界は日進月歩で、それ自身どんどん進んでいっています。要するに、それを我々が生活する上で関係するすべての事柄に渡って実行していくことなど、およそ不可能と思えることで、また実利的見地からして不要です。

仏教の目的は、この世のすべての事象を知り尽くすことなどではありません。また、神のごとき存在として「ほとけさま」に対する信心をもって、その救済を俟たんとするものでもありません。

仏教は、「我が苦たる生存の永続からの解脱」・「我が輪廻の終焉」を第一義とするものです。

けれども、第二義的に、そこに至るための術として、あるいは出家者のようにそれに専心出来ない在家者の生き方として、自分が他者と共に幸福に生きることを勧めるものでもあります。そこには一つ、この経で説かれるような態度を採るべきとする、一つの明快な判断基準があります。

それは、強欲と怒りと愚かさに基づく行為につながるか、むしろその教え(情報)を実行することによって、それらが自身の心に起こって不善の行いを為すことになるかどうかです。

それはまた、「幸せ」につながることであるかどうか、ということでもあります。幸せといっても人によってまちまちですが、ここに言う幸せとは、上にすでに述べたことの繰り返しとなりますが、心に自他に対する害意なく、悪意なく、欲望に囚われず、自由であることです。

そして、これもまた重要なことなのですが、いくら人が上に述べたような態度でもって事を知り、判断した所で、その人の心に慈しみなどの思いがなければ、それは虚しいものとなるでしょう。本経で説かれる教えは、人に宗教的になれ、信仰的生活を送れ、ということを勧めるもので全く無いのはもちろんのこと、ただリチテキ・ゴーリテキ・カガクテキになれ、とだけ勧めているものでも決してありません。

自分と他人、そしておよそすべての生きとし生ける物への慈しみ、そして思いやり、(幸福であることに対する)喜び、またそれらに執着しない平静な心、すなわち「慈悲喜捨の四無量心」は、智慧を育む土壌となるものです。

ただ理知的であるだけではまったく不十分です、そこに四無量の思いがなければ。

筏の喩え

それがいかに自他に利益をもたらすか否かという点に価値基準を求める点。そこにおいて、本経で説かれている態度は、19世紀後半から20世紀前半のアメリカ発祥の、デューイ(J.Dewey)に代表される道具主義(Instrumentalism)に通じるものであると言えます。

仏教は、仏陀の教えは、我々が「いかに苦しみを克服するか」「苦しみの悪循環から抜け出すか」のためのもの。そのために智慧と慈悲とを獲得し、増長させるためのものであって、仏壇や神棚、供物台に鎮座させて拝み倒すようなものではありません。あるいは、飾り棚に飾ってうっとりとながめ、人に開陳したり自慢したりするようなものでもありません。

仏陀はこのようなことについて、「筏の喩え」をもって示されています。

人が、この岸からかの岸まで河を渡るために筏によったとして、目的とした渡河を果たして陸に上がってからもなお、後生大事に筏を運ぶ必要などは無いと。

また、肝要なのは河を渡ることであって、筏のつくりや見かけではありません。いかに合理的に造られ、見た目もよく問題のなさそうな筏であっても、まず河に浮かべて乗らなければ要を為しません。いかに見かけの悪い、粗末な作りのものであっても水に浮いて乗ることが出来、人がこれによって河を渡ることが出来るならば、その筏は良いものです。

これは私見ですが、時にそれがいわゆる合理的なものでなかったとしても、その人に四無量の思いが備わるのであれば、それは一先ず良いことであると考えます。

「鰯の頭も信心から」と言いますが、鰯の頭でもそれを信仰することに依って、その人に慈しみが芽生え、四無量心が育まれるならば結構なことです。それがすすんで「絶対唯一神おイワシ様」などとなってしまうとまた問題で、故に「一先ずは」なのですけれども。

人というものは面白いもので、時に非合理なものに依ることによって、合理的に円滑に物事を進め得ることがあります。

搖容として

世間には、これをどう間違えてしまったものか、あたかも鬼の首でも取ったかのようにして、この教説を根拠とし、ほとんどすべての事柄について疑うばかりとなって、ついには判断停止してしまうなど極端で非建設的な懐疑論者(skeptic)となってしまう人があります。

また、そのような態度こそ本来的仏教的態度であるなどとしてしまう輩もあります。

あるいは、これも稀にでなく見られるのですが、「私だけの仏教」「私のダルマ」などといった種の、いわば自分勝手な説を立ててしまったりする者があります。この教説を根拠として、みずからの(独自)説が正しいことの証明とし、あまっさえ口汚く罵るように、その他の説の批判を開始してしまう人もあります。

しかし、それは本経の意図から大きく外れた行為となるように思われますが、どうでしょうか。

繰り返しますが、この経において仏陀が説かれていることは、まずは疑ってかかれ、何も信じるな、他人に頼ることなかれなどということではなく、自分が聞いた教え(得た情報)に対して、それが自らの貪瞋痴に基づく行為につながるか否か、四無量心を持つのに資するものであるか、その是非を自分で確かめ、取捨選択せよというものです。

それを一体どうして、自らが他者を論難あるいは中傷する、その根拠とすることがありましょうか。

今太字にして強調した点をごっそり除き、これをただ単に「ゴーリテキに自ら考え、実証せよ」などというものとしてしまったならば、無論それも要点の一つではあるのですが、まさしく画竜点睛を欠くものとなってしまうでしょう。

そして、むしろこの教説をもって我慢を増長し、他者との争いに際してやたらと持ち出してしたり顔をするようであれば、まったく「論語読みの論語知らず」ならぬ「仏典読みの仏教知らず」となってしまうに違いありません。

いや、あるいは古の支那の諺でこのように言われる輩となってしまうに違いありません。

孝経を擎げて、母の頭を打つ。

(孝を説く)『孝経』を高く手に捧げ持ちながら、母の頭を殴りつける。[自身の奉じている思想と、その実際の行いとがまるで正反対であること。]

己で引いておきながら、この言は「古の支那の人はこの現代の私に向けてこの言を放っていたのであろうか」とすら思えるもので、我が耳に痛切なる響きをもって聞こえるものです。まったく、私もここに批判されるのと同様の輩であると、いや、まさしく私のことであると、嗚呼、我が大なる非を顧みずにはいられない。

しかるに仏教を学び、行じ、信じることは、自分が正しいことを他に対して認めさせるためのもの、認めてもらうためのものではないでしょう。いや、そのために仏教を信仰しているのだ、などという人もあるかもしれません。が、それは全く虚しいことであると言わざるを得ません。

仏陀はこのように言われています。そして、これが事実であることを認めることは、誰しも容易いものであるでしょう。

Samo visesī uda vā nihīno,Yo maññatī so vivadetha tena.

(自分あるいは自分の奉じる説が)「等しい」とか、「勝れている」とか、「劣っている」などと考える者。彼は、それによって口論するであろう。

SN, Nandanavaggo, Samiddhi sutta.
KN, Aṭṭhakavaggo, Māgaṇḍiya sutta.

[日本語訳:沙門覺應]

これと同様に大乗の龍樹菩薩もまた、これはあるいは上に引いた仏所説をそのまま承けての言であるかも知れませんが、『大智度論』の中にてこう述べられています。

我法真実餘法妄語。我法第一餘法不実。是爲闘諍本。

我が法は真実にして、余法は妄語なり、我が法は第一にして、余法は不実なりとする、是を闘諍の本と為す。

龍樹『大智度論』巻一(T25. P64a

自身がどのような見解を持つか、どのような経緯でその見解をもつに至ったかなど、他に対して誇るべきことでも、その優劣を競うべきことでもありません。そのようなことが、一体どうして自他の安楽に利することとなるでしょうか。

先に言ったことの繰り返しとなりますが、自他への害意、悪意を持たず、慈しみなどの心をもって対することは非常に重要なことです。それは、他でもない自身を利することです。

しかしながら、慈しみなどの心を持つことは、人の性からいって決して容易なことではありません。いわば人の性の正反対を行おうというものです。故に日々に忍辱(耐え忍ぶ)という術によって、冥想という手段によって、継続的にこれを育み強めなければ、日常この思いを維持することは難しいことです。

今ここに言ったことも、みずから確かめるべきことであって、実際にみずから確かめられるものです。その時こそ、その人はきっと、それがまさしく教説にあるとおり「長きにわたる利益と安楽をもたらす」ものであることを知るでしょう。

そしてまた、それをみずから確かめることによって、仏陀に対する信がいや増すこととなるでしょう。はるか二千五百年前に活躍され、今もなお智慧と慈悲と獲得する道を人に指し示し、その広大なる恩恵を授けつづける仏陀という誠にすぐれた大人物に対する深い尊敬、この上ない聖人に対する畏敬の念が。

沙門覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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2.凡例

本文

このサイトで紹介しているMajjhima Nikāya所載のKesamuttisuttaは、1954年のビルマ・ラングーンにて開催された第六結集の際に編纂されたChaṭṭha saṅgāyāna版(ビルマ本)を底本とした。

底本では本文中‘…pe…’と省略が用いられている箇所が数箇所あるけれども、本項ではそれら省略されている箇所に該当する一説をあて、すべて訳出している。

日本語訳には、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる箇所に付した。

語の説明に際しては、BuddhaghosaによるMajjhima Nikāya(中部)のAṭṭhakathā(注釈書)を適宜引用している。その際、これをMAと略記して、引用文の冒頭に付し、それが注釈書からの引用であることを示している。

沙門覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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